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遅咲き

今日は、多くの方がその作品に小説や映画を通して触れたであろう作家

 新田 次郎 さん

の命日・没後40周年にあたります。


       


新田(本名:藤原 寛人[ひろと])さんは、1912(明治45)年に長野県上諏訪で生まれました。

※ペンネームは、生まれ故郷が角間新田(かくましんでん)だったことから新田を〝にった〟に読み替え、次男だったことから次郎としたそうな。

とは言え当初から小説家を目指していたわけではなく、むしろ理系だった彼は旧制諏訪中学校(現・諏訪清陵高等学校)から無線電信講習所本科(現・電気通信大学)を卒業後、1932年に中央気象台に就職。


最初の配属先が、富士山観測所でした。

普通に考えればいきなり過酷な職場に放り込まれた感がありますが、新田さんの場合はこれが後々功を奏したといえます。

そしてもうひとつ、新田さんの運命を変えたのが、結婚。


1939年に所帯を持った相手・兩角(もろすみ)ていさんが、作家だったのです。

結婚翌年に中央気象台布佐送信所に転勤し、1943年には満州の気象台に転属した彼は、1945年の終戦時には新京でソ連軍の捕虜となり、1年間抑留生活を経験。

翌年中央気象台に復帰した頃には既に小説らしきものを書いていたようですが、本格的に小説家を目指すキッカケになったのは、奥さんが書いた 『流れる星は生きている』 という作品がベストセラーになり、映画化されたこと。

当時過酷な職場環境の割に安月給で苦しかった生活が、このヒットで楽になったことで、新田さんは真剣に作家への転向を考えたようです。

アルバイトで教科書の気象関係の執筆や小説を書き始めた彼は、1951年にサンデー毎日が公募した第41回大衆文芸に応募した 『強力伝』 が一等となり、同作品は1956年の第34回直木賞を受賞。


その後も複数の作品を発表すると、1963~65年にかけて気象庁観測部測器課補佐官・高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となり、見事設営に成功。

その翌年、作家一本に絞るべく慰留を振り切って定年6年前に気象庁を退職すると、1967年には富士山レーダー建設を実体験に基づいて描いた 『富士山頂』 を上梓。

       

                 文春文庫・刊

1971年に発表した 『八甲田山 死の彷徨』 が、1977年に高倉健さん・北大路欣也さんが主演した 『八甲田山』 で映画化。

この中で北大路さんが発した 「天は我々を見放した」 という台詞が流行語になったことで、新田さんの知名度は一気に上がりました。


自らの体験を通じて書かれた山岳小説は、他の追随を許さぬ緻密な描写が特徴。

拙ブログでも、過去に富士山頂の観測に命を懸けた野中夫妻の物語『芙蓉の人』(1971 ↓)


や、剱岳に登頂し測量点を設置した柴崎芳太郎の奮闘ぶりを描き映画化もされた 『剣岳点の記』 (1977年 ↓)


    https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12370749060.html


をご紹介しました。

その他歴史作品としても吉川英治文学賞を受賞した 『武田信玄』(1969)や 『新田義貞』(1978)、『武田勝頼』(1980)などを上梓した新田さんが心筋梗塞で67歳の人生に突如幕を下ろしたのは、1980(昭和55)年2月15日のことでした。

作家に転身したのが遅かった故に、自らの健康を顧みない程精力的に筆を進めたことが、彼の命を削ってしまったのかもしれません。

遅咲きながら多くの名作を残した新田さんのご冥福を、彼の作品のページをめくりつつ祈りたいと存じます。
笑3


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