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教育者

今日は、関西の雄・同志社大学の創立者として名高い教育者、

 新 島  


の命日・没後130周年にあたります。


        


彼は1843(天保14)年に、上州安中藩士・新島民治の子として江戸・神田にあった同藩江戸屋敷で生まれました。

元服後に友人から譲り受けたアメリカの地図書から同国の制度に触れ憧れを持つようになった彼は、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶと、アメリカ人宣教師による漢訳聖書に出会ったことで当時は禁止されていた海外渡航を思い立ちます。

1864年、アメリカ密航を企て開港地・箱館に潜伏した彼は、ロシア領事館付の司祭ニコライ・カサートキンの協力を得て、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨や福士卯之吉と共に6月14日、箱館港からアメリカ船ベルリン号に乗り出国。

上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えて憧れの地・アメリカへ。

※この船旅の際、船長から “Joe ” と呼ばれたことから、彼は帰国後実名の〝七五三太(しめた)〟から譲、やがて〝襄〟と名乗るように。

ワイルド・ローヴァー号の船主・ハーディー夫妻の援助を受けフィリップス・アカデミーに入学した彼は、1866年に洗礼を受け、キリスト教徒に。

そして1870年にはリトル・アイビーと呼ばれていた名門校アマースト大学を卒業し、日本人初の学士に。


※同大在学時には、後に札幌に赴任することとなるクラーク博士の授業も受けており、その縁で彼が来日したとか。


そして1872年にアメリカ訪問中の岩倉使節団と出会ったことが、彼の運命を大きく開くことに。

新島の語学力に目を付けた木戸孝允が、自分付きの通訳として迎え入れると、彼は使節団と共にニューヨークからヨーロッパ各地を同道。

その後ベルリンに7ヶ月間滞在し、使節団の報告書とも言うべき 『理事功程』 を編集。

これは後に明治政府の教育制度に大きな影響を及ぼしました。

その後各国の教育制度を調査し、1874年にアンドーヴァー神学校を卒業した彼は、その翌年宣教師志願者の試験に合格してボストンで教師としての任職を受けると、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えると、同年11月に横浜に帰着。

同地でキリスト教の講演を行い、毎週日曜日に聖書研究会を開くと、1878年には30人が彼から洗礼を受け、安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立。

そして1875(明治18)年、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷の約半分を借り受けて校舎を確保し、また京都府知事や府顧問らの賛同を得て旧薩摩屋敷5,800坪を借り受けて同志社英学校を開校し、初代校長に就任。

同志社とは「志を同じくするものの約束による結社」という意味。

     

               開校当時の同志社英学校

これが現在の同志社大学の前身ですが、開校当初は教員が彼を含め2名、生徒はたった8人だったとか。

それが今や2
つの大学、4つの中学校・高等学校、2つの小学校、幼稚園及びインターナショナルスクールと、合わせて10もの学校園を擁する総合学園になったのですから、大したもの。


この開校時の縁で、府顧問・山本覚馬の妹・八重と結婚。

       


1883年に東京に赴き全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加すると、その翌年にはヨーロッパに2度目の海外渡航。

しかしその際スイスで心臓発作を起こして遺書を認めたのですが、これが予兆だったのかもしれません。

1885年に帰国すると、同志社英学校に開校翌年入学した徳冨蘇峰の協力により、井上薫・大隈重信・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一ら錚々たる政財界人から寄付の約束を取り付け、同志社大学設立の準備に奔走。

しかし1889年11月に心臓疾患を悪化させて静養するも、翌1890年1月23日に46歳の若さでこの世を去ってしまいました。

徳富蘇峰が尽力し念願の同志社大学が開校したのは、彼が亡くなってから30年後の1920年のことでした。


 ※徳富蘇峰に関する過去記事は、こちら。(↓)



上記記事で紹介した通り、彼は同志社英学校卒業直前に事件絡みで中退を余儀なくされましたが、その後も新島に対する尊敬の念は変わらず、新島の臨終に立ち会った彼はその後も貴族院議員の歳費を封も切らずに八重夫人に手渡すなどして生活の面倒を見たそうな。

巨人・蘇峰をそこまで惚れ込ませた新島襄もまた、秀でた人格者だったのでしょう。

あらためて黎明期の日本を支えた教育者のご冥福を祈りたいと存じます。
笑3


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