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拉 致

終戦直後からサンフランシスコ講和条約が発効してアメリカの占領から脱するまでの間、日本国内では不審な出来事がいくつも起きましたが、その中の一つ


鹿地事件

が発覚しのが、今から66年前の今日のことでした。

事件の主人公は、鹿地 亘(しかぢ わたる 本名:瀬口 貢) なる小説家。

1903年に大分県に生まれた彼は、東京帝国大学国文科を卒業した秀才ですが、在学中からマルクス主義に傾倒して社会運動に関心を持ち、学外でもプロレタリア文学運動に参加した後、1932年に日本共産党入党。

1934年に治安維持法違反で逮捕されるも獄中で転向。
出獄後1936年に中華民国に渡り、魯迅と親交をもちました。

1937年に支那事変が勃発すると、国民政府と共に武漢から重慶に移動。


1938年12月から蒋介石の承認を得て国民党支配地域で 『日本人民反戦同盟』 を結成、日本人捕虜や居留民に〝教育〟を施しました。


      

終戦後に帰国した彼は民主主義文学運動に参加し、1947年の第1回参議院議員選挙に出馬するも、落選。

そして1951(昭和26)年11月25日、肺結核療養中の神奈川県藤沢市内で、忽然と姿を消したのです。

その後彼の行方は分からず1年余り経った1952(昭和27)年12月7日夜、彼は突然東京の自宅に戻ってきたのです。


    

             帰宅を報じる12月8日付け朝日新聞

事件は衆議院法務委員会でも取り上げられ、彼は解放直後の12月10日に国会で証人喚問を行い、事件の証言を行いました。

それによると、彼は行方不明になった前年11月25日の午後7時頃、自宅付近を散歩中に軍用車から降りてきた複数のアメリカ人に突然殴り倒されて拉致され、当時キャノン機関(GHQ参謀第2部直轄の秘密諜報機関)が接収・使用していた東京・湯島の旧岩崎邸などに監禁されたとのこと。

ソ連のスパイではないかと執拗な尋問を受け、更にアメリカ側の二重スパイになることを強要されたとか。


しかし米軍にコックとして雇われ彼の世話を任されていた山田善二郎(当時24)という人物が、彼の2度にわたる自殺未遂とその遺言書を読んだことから同情し、米軍を辞めて彼の実情を家族に連絡。

それを受けて家族が11月12日に捜索願を提出し、社会党代議士が解放に向けて動き出したのをマスコミが報じたことで、アメリカ側は彼を開放せざるを得なくなったようです。


国会で証言が行われた翌日、アメリカ軍は拉致について 「鹿地がソ連のスパイと自白したため、身柄保全のために保護していた」 と言明。

確かに彼自身、「私はソ連のスパイである」 という内容の自供書を認めていましたが、それは自殺未遂直後の憔悴した状態で、釈放の条件として書かされたと反論。

朝鮮戦争真っ只中のアメリカ軍が、なぜ彼を長期間拉致したのか?
日本共産党の情報が欲しかったのか?

謎を残したまま、彼は1953年11月に米ソ二重スパイ事件の犯人として(スパイ防止法がなかったため)電波法違反で起訴されるも、1969年に無罪が確定。
事件の顛末を上梓した彼は、1982年に没しています。

余談ですが、キャノン機関の名は、司令官だったジャック・Y・キャノン陸軍少佐(のち中佐)の名前を取って名付けられました。

       

                 Jack Y. Canon


同機関は、1949年に続けて起きた国鉄の下山・三鷹・松川事件にも関わっているといわれる、謎の諜報機関。

 ※下山事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



キャノン中佐は、鹿地事件発覚前にアメリカへ帰国しており、その後CIA入りした後、諜報活動から身を引きました。

自宅で弾薬の開発をするなど実業家として活躍しましたが、66歳だった1981年に自宅のガレージで胸に銃弾を2発撃ち込まれた死体で発見されています。

自殺か他殺かは不明だとか・・・って、2発撃つ自殺なんて聞いたことないですけど。

諜報活動に携わると、ロクな死に方をしない・・・のかも?


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