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軍 人

かつて田中真紀子氏に〝軍人〟と揶揄されたのは梶山静六氏ですが、今日は彼のお話ではありません。

今日は将校として数々の戦争に従軍し、また 『戦争論』 の著者として名高い


 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
      Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz


の命日にあたります。


         


クラウセヴィッツは1780年にプロイセン王国のマクデブルク市で生まれました。

ポーランド系ドイツ人の父親は従軍経験のある徴税官で、彼の息子4人のうち3人は将校になりました。(クラウセヴィッツは末弟)


早くも12歳の時にフェルディナント親王歩兵連隊に入隊した彼は、2年後に第一次対仏同盟戦争に従軍。


少尉に任官された彼は、上司から非常に頭脳明晰で有能かつ熱心と高い評価を受け、1801年にベルリンの士官学校に推挙され、そこで後に 「父でもあり、心の友であった」 シャルンホルスト中佐の元で軍事学を修得。

また中佐が主宰する郡司学会に出席を許され、そこで数学・地理学・歴史学などの一般教養や軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業。


その後は軍事学会の会員だったアウグスト親王が指揮する近衛大隊の副官となりますが、1806年に仏軍と交戦した際は大敗を喫し、捕虜となる経験も。

釈放後ベルリンに移った彼は、恩師・シャルンホルスト推進する軍制改革に助力し、1810年に新設された陸軍大学校の教官に任命され、またプロイセン皇太子の軍事学教官をも務めました。


その後ロシア軍の参謀を務めるなどした彼は、1818年に少将に昇進し陸軍大学校々長に就任。


そして50歳になったことを契機として再び現場勤務を希望した彼は、東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となり、ボーランドの暴動鎮圧に向かいますが・・・1831年11月16日に突然激痛と痙攣に襲われ、心臓麻痺により51歳でこの世を去ってしまいました。

軍人としては、戦場で死ねなかったことを無念に思ったことでしょう。

さて彼の名が後世に残されたのは、冒頭ご紹介した 『戦争論』 の著者として有名だからですが・・・実はこの著作、彼一人の力で世に出たわけではありません。

大きな力となったのは、1805年に結婚した愛妻の伯爵令嬢マリー・フォン・ブリュールでした。


『戦争論』 は、戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけ、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている名著。

クラウセヴィッィツはこれをナポレオン戦争終結後の1816~1830年にかけ、主として陸軍大学校々長時代に執筆しましたが、未完成のまま死去してしまいました。

そこで妻マリーが遺稿と断片的に残された2つの章を編集し、『戦争および戦争指導に関するカール・フォン・クラウセヴィッツ将軍の遺稿』 全10巻として出版。

この第1~3巻が、『戦争論』 として世に知られることになったのです。

夫の著作とはいえ、戦争に関する著作を整理・出版にこぎつけるには、聡明な頭脳と深い愛情がなければできなかったでしょうネ。

『戦争論』で最も有名なのは、この一節でしょうか。

〝一頭のライオンに率いられた百匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた百頭のライオンの群れに勝る〟

まさにリーダー論・組織論の根幹を表現しています。

その壮大な論文に興味がある方には、この書籍をお勧めします。

 『クラウゼヴィッツと戦争論』


           (清水他吉&石津朋之・編 彩流社・刊)


       

これは単なる 『戦争論』 の翻訳・解説ではなく、クラウゼヴィッツの生きた時代や彼の思想を現代に置き換えた場合の考察など、複数の論文を集め元防衛省に勤務していた石津氏らの編集によりまとめられたものです。

これを読むにつけ、人間の本質って昔も今も同じ・・・変わっているのは使う兵器だけって気がするのは、私だけでしょうか?うー

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