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至 誠

今日は、幕末に活躍した有名な青年思想家・教育家であり、現在でも、政財界人をはじめとして多くの方に尊敬・私淑されている、

 吉田 松陰


の命日・没後160周年にあたります。

       吉田松陰


1830(文久13)年に長州藩士・杉 百合之助の次男として生まれた彼は、4歳の時に山鹿流兵学師範である叔父・吉田大助の養子になります。


11歳の時に、藩主・毛利敬親の前で山鹿流 『武教全書』 戦法篇を朗々と講じ、藩主をはじめ居並ぶ重臣たちの目を見張らせ、「松本村に天才あり」 とその名を萩城下に知らしめました。


21歳で藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任した松蔭は、その後西洋兵学を修めるため九州に遊学したり、江戸に出て佐久間象山に師事。


「西洋列強各国から日本を守るためには、彼等を知る必要がある。」


そう信じた松蔭は1854年1月に金子重之助と共に密航を企て、再来航したペリーの黒船に乗船を願い出るも拒否され、2人は自首・逮捕されます。


老中・阿部正弘の反対で辛うじて死罪を免れた松蔭は萩に送還。


野山獄に投獄された彼は、獄中で囚人達を相手に 『孟子』 の講義を始め、彼らを啓蒙します。


1年2ヶ月後に自宅謹慎となった松蔭は、自宅に設けられた幽囚室で親族・近隣の者を相手に再び『孟子』講義を開始。

その内容の濃さが評判となり、やがて松陰の叔父・玉木文之進が開いた 『松下村塾』 を引き継ぐ形で主となります。


松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は約2年余りに過ぎませんでしたが、その間彼から教育を受けた門下生には、久坂玄瑞・高杉晋作山県有朋そして昨日ブログで取り上げた伊藤博文など、明治維新に関わった多くの重要人物が。


塾生には身分に関係なくどんな者でも受け入れ、


「学者になってはいけない。 実行しなければならない」


と、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説き、自らが脱藩や密航を試み実行を重ねる松陰の言葉に、若者達の心は強く揺さぶられ惹きつけられていったのです。

そして松蔭は、老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていることに激怒。 


間部要撃計画を実行しようと塾生に声をかけ要撃隊を組織しようと試みますが、この計画は弟子たちの反対で頓挫。


再び藩に自首しますが、この過激な行動によって藩から危険分子と見做され、松下村塾は閉鎖。 


松陰は再度投獄され、遂に幕府から江戸送還命令が下されます。


幕閣の多くは自首した松蔭に同情的で遠島が妥当と考えたようですが、安政の大獄を指揮する大老・井伊直弼は彼を厳しく処断。


 ※井伊直弼に関する過去記事は、こちら。(↓)



1859(安政6)年10月27日に松蔭は斬首に処せられ、30年という短い生涯に幕を閉じたのです。


人を信じ、己の信念に真っ直ぐに生きた松蔭・・・もし正直に自首などしなければ、もっと生き延びて更に多くの人々に影響を与えたかもしれません。


が、そういう生き方こそが後世に名を残し人々を感動せしめたともいえましょう。


吾れ今 国の為に死す   

死して君臣に背かず    

悠々たり 天地の事

鑑照 明神に在り

  私は今、国の為に死ぬ。
  死ぬけれども、君や親には一切背いていない。
  果てしなく、永久に天地は存在する。
  神様が私の心をきちんと見通してくださっている。


処刑直前に詠んだといわれるこの詩に、彼の想いが凝縮されているのではないでしょうか。


この気概を、現在の政治家に持ってもらいたい・・・いや、私たち国民が抱かなければなりますまい。


そんな松陰の教えを知りたい方には、こちらの書籍をお勧めします。

  『吉田松陰 一日一言』 (川口雅昭・著 致知出版社・刊)


       

因みに上記の〝辞世の詩〟は、今日・10月27日の項に掲載されています。


今宵は同書を再読しつつ、〝志士の師〟の冥福を祈りたいと存じます。笑3

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