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政 争

学校ではまず教わらないものの、近代日本の行く末を決めた大きな出来事が、今から138年前の今日起こりました。 それは

 明治14年の政変


1877年の西南の役で西郷隆盛が倒れ、翌1878年には大久保利通が暗殺されて明治維新を支えた両巨頭が姿を消した明治政府内では、徐々に国会開設の機運が高まっていました。

しかし政府内では消極論者の右大臣岩倉具視と斬新派の伊藤博文井上馨、更には急進的な大隈重信がいて、決して一枚岩ではない状況。


       

                  大隈 重信   

この政治バランスを大きく崩すキッカケとなる『開拓使官有物払い下げ事件』が起きたのが、1881(明治14)年7月のことでした。

北海道開拓使は、北方開拓のために1869~1882年まで置かれた官庁で、 ロシア帝国に対抗するために国力を充実させるため北海道開拓に力を入れるべきと主張した黒田清隆が長官に就任。


そして十年計画の満期が近くなった1881年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の事業を継承させるため部下を退職させて企業を起こし、1,400万円の公費を投じた同計画で作った船舶や農園・炭鉱・ビール工場などを僅か39万円、しかも無利息30年賦という破格の安値で関西貿易商会へ払い下げることに。

       

                                     黒田 清隆


黒田清隆と同商会の経営者・五代友厚が同じ薩摩出身者だったこともあり、これを知った元大蔵卿の大隈重信が反対・・・するのは当然のことだと思いますが、この払い下げが7月に新聞にすっぱ抜かれたことで、世間は大騒ぎに。

このネタを新聞社にリークしたのが大久保だ、と政府内で疑われてしまったのです。

その頃の政府は薩長土肥体制から薩長体制に変わっていましたが、肥前(佐賀)出身の大隈は元々亜流。

本来この官有物払い下げ事件で糾弾されるべきは黒田清隆のはずなのに、あべこべに大隈が批判の矢面に立たされることになってしまいました。

この事件前、冒頭申し上げたように政府内では議会の設置機運が高まり、伊藤を含め各参議が意見書を提出していましたが、大隈だけは未提出。

しかし1881(明治14)年3月、彼は〝密奏〟という形で有栖川宮熾仁親王にイギリス流の立憲君主国家を標榜し早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張する意見書を提出したのです。  


頭越しに意見書を提出されたことを知った岩倉具視は、怒って井上毅に相談。

彼は福沢諭吉の民権論と類似した大隈案に対抗してドイツ(プロシア)式の
君権主義国家が妥当とする意見書を作成。

伊藤博文は双方の勝手な動きを知って激怒しましたが、そこで持ちあがったのが、前述の官有物払い下げ事件。


大蔵省内の大隈派が安価な払い下げを公然と批判したことを不快に思った伊藤は、大隈追放に傾きます。

       

                    伊藤 博文

そして大隈が明治天皇の行幸に同行し不在の間に伊藤と井上毅らが協議して大隈の罷免・払い下げの中止・10年後の国会開設を決定。

明治天皇が帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て正式決定がなされたのです。

翌日詔勅が公表されると、大隈は伊藤らに促されて辞表を提出。


他に犬養毅尾崎行雄田中耕造前島密ら、また福沢諭吉門下の慶應義塾OBが政府から追放されました。

その後伊藤博文は自ら渡欧し、ドイツ(プロシア)式の憲法導入を決定することになりました。

一方、野に下った大隈は翌1882年に立憲改新党を結成し、また政府の妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を創立。

また慶應義塾OBらは『時事新報』を立ち上げ、実業界へと進出しました。

もしこの政変がなければ大日本帝国憲法はイギリス流となり、また早稲田大学の創立や慶應義塾の財界進出は大幅に遅れ、現在のような両校のライバル関係は存在しなかったかもしれません。

歴史に〝もし〟はないとは言え、卒業生の一人としてはついつい考えたくなります。
うー


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