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悲 運

もしこの人がもう少し生きていたら、歴史は大きく変わっていたはず。

我が国にもそう思える逸材が何人も現れてきましたが、確実にその中の1人だと私が思っているのが


 橋本 佐内


今日は、6歳年上だった西郷隆盛をして 「その才学器識は、到底自分が及ぶものではない」 と絶賛したこの福井藩士・思想家の命日・没後160周年にあたります。


佐内は1834(天保5)年に、福井藩藩医・橋本長綱の長男として福井城下に生まれました。


幼少の頃からその才気は抜群、10歳にして 『三国志』 全65巻を読破・理解した程で、その志の高さは、彼が残した 『啓発録』 をみれば一目瞭然。 そこには


去稚心(稚心を去る) 子供じみた甘えから脱却すべし

振  気(気を振るう)  恥辱を知り、人に負けまいと強く決意すべし

立  志(志を立てる) 自らの目標をゆるぎなく定め、精進すべし

勉  学(学に勉む)   優れた人物の行いを見習い、実行すべし

択交友(交友を択ぶ) 自分の向上に役立つ友を選択すべし 


と記されていますが、驚くべきは彼がこの決意を固めたのが弱冠15歳の時であったこと。驚き顔 


今時の15歳といえば、やれアイドルがどうとか、スマホが欲しい等々が普通でしょうが・・・時代が違うとはいえ、その差に愕然とします。


(かく言う私自身も、その頃はバスケットボールに熱中していた毎日でしたから、偉そうな事は言えませんが・・・。)


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そして大阪に行き適塾で緒方洪庵らに蘭学を学び、帰藩後は父親の跡を継ぎ藩医に。


しかし学問への熱意止み難く、彼は1854年に許可を得て江戸遊学。


そこで藤田東湖・西郷隆盛・佐久間象山ら諸藩の碩学・志士と親交を結びます。


そして1857年に藩校・明道館の学館同様心得になると、洋学を導入して教育改革に取り組み、同年8月に江戸に上がり藩主・松平春嶽に仕えて条約問題などの幕政に関わるように。


そんな前途洋々だった彼の運命を大きく変えたのが、将軍継嗣問題でした。


次期将軍として慶喜を推す一橋派の中心として藩主・春嶽をサポートしていた彼は、紀伊藩主・徳川慶福を推し独断で12歳の彼(14代将軍・家茂)を世継ぎとした大老・井伊直弼によって行なわれた大粛清・『安政の大獄』 で捕えられ、1859(安政7)年10月7日・・・25歳の若さで斬首されてしまいました。


同じ獄舎の別室に捉えられていた吉田松陰は、彼の死を知るや


「今更ながら、佐内と一度も会えなかったことが悔やまれてならない」


という言葉を残し、彼から20日遅れて斬首されました。 また西郷隆盛は隠遁先の奄美大島で佐内の死を知り、知人宛てに


「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」


と手紙に書き記しています。


有能な若手志士の命を奪った井伊直弼は、それから僅か半年後に 『桜田門外の変』 で暗殺されましたが・・・その後日本の辿ったのは佐内の提唱した開国・富国強兵の道であり、半世紀後の国際連盟誕生も彼の予見通り。

もし彼が明治維新に関わっていたら、日本の歴史は大きく変わっていた・・・そう考えるのは私だけではないでしょう。


人間の運命の非情さをかみしめつつ、幕末に儚く散った傑人のご冥福を祈り致します。


せめて私自身が死を迎えた時には、彼の15歳時の意識レベルに達したいと願いつつ・・・。うー


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