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努力家

陸上競技の中で日本人に最も人気のある種目といえば、マラソンでしょう。

その中でも、2000年のシドニー五輪で高橋尚子、2004年のアテネ五輪で野口みずきの両選手が金メダルを獲得した女子マラソンは、今でも世界のトップレベルに位置しています。

今日は、その女子マラソンの草分け的存在だった

 佐々木 七恵 選手

の命日・七回忌にあたります。

1956(昭和31)年に岩手県大船渡市で生まれ、5男2女の末娘で生まれたことから七恵と命名された彼女は、中学時代バレーボールをやっていたものの、住田高校では兄の影響で陸上競技に転向。

日体大時代までは中距離ランナーとして活躍した彼女がマラソンに取り組んだのは、大学卒業後のことでした。

1979年、この年から始まった東京国際女子マラソンに出場し26位となった彼女は、故郷・岩手県の県立学校の教員をしながらトレーニングに励み、学校休みの時期に上京してはあの瀬古選手の師として有名だった中村清氏の指導を受け、次第に記録を伸ばしていきます。

1981年のボストンマラソンで日本最高記録を樹立し、日本女子マラソン界のトップランナーとなった佐々木選手ですが、ここで思いがけない挫折を味わいます。

それは、現在解説者として活躍している、終生のライバル・増田明美選手の登場。

ボストンマラソン直後の国内トラックレースで、まだ高校生だった彼女に大差をつけられて敗北を喫した佐々木選手は大ショック。


2年後のロス五輪で正式種目となった女子マラソンの出場を目指していた彼女は、なんと安定した教員職を辞め、中村監督率いるヱスビー食品陸上部入り。

リベンジに燃える彼女は、それまで以上に中村氏の指導を熱心に受けて猛練習を重ね、翌年の5,000mでは増田選手に快勝。

その1ヶ月後にはニュージーランドでのマラソン大会で日本人最高記録を樹立。

1983年11月の東京国際女子マラソンで日本人女性として初優勝を飾り、見事ロス五輪の日本代表の切符を手にしたのです。

翌年開催されたロス五輪の女子マラソンは、アンデルセン選手のフラフラ・ゴールがあまりに有名(関連記事はhttp://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11506723545.html
)ですが、佐々木選手は彼女より早く
2時間37分4秒でゴールイン。

19位ではありましたが、過酷な条件下で日本人ランナーとして唯一完走を果たしました。(※増田選手は途中棄権)


恩師・中村監督をして 「天才は有限、努力は無限」 と言わしめ、東北出身者らしい粘り強い走りから〝おしん走法〟とも評された彼女でしたが、この晴れ舞台で燃え尽きたのでしょうか・・・五輪直後に中村監督の勧めで自衛隊勤務の男性と結婚。

「家庭とマラソンの2足の草鞋は無理」と引退を表明し、ラスト・レースとなった翌1985年3月の名古屋国際女子マラソンに出場。

2時間33分57秒という自己ベストを叩き出して優勝し、見事有終の美を飾りました。


          


初マラソンから5年半で自己ベストを30分以上も縮めた彼女・・・結婚後2人の子供をもうけましたが、今流行り(?)のママさん選手として現役復帰はしませんでした。

ライバルだった増田選手が 「陸上界の山口百恵的な生き方」 と評したように、佐々木さんは引退後一切表舞台に立つことはせず、ヱスビー食品陸上部のコーチや顧問として縁の下の力持ちとして後進を指導し支えましたが・・・
頑張り屋の彼女も、病には勝てませんでした。


2007年に直腸ガンが発見され治療を続けていましたが・・・2009年6月27日、53歳でこの世を去ったのです。


1992年のバルセロナ五輪で銀、1996年のアトランタ五輪で銅メダルを獲得した有森裕子選手が 「佐々木選手を目標にして後を追いかけた」とコメントしているように、日本女子マラソンの隆盛は間違いなく佐々木選手の存在なくしては語れないと申せましょう。

五輪のメダルは獲れませんでしたが、黎明期の女子マラソン界を引っ張り、その走りで努力の大切さを身を以って後進に教えた〝おしんランナー〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




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