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密 告

今日・9月28日は、20世紀ハリウッド隆盛の一翼を担い、アカデミー賞監督賞を2度獲得した

 エリア・カザン
   Elia Kazan

の命日、日本流に言えば十七回忌にあたります。

       

カザンは1909年にオスマン帝国(現・トルコ)の首都イスタンブールで、ギリシャ人家庭に生まれました。

その翌年にギリシャとオスマン帝国,が戦争になったため住みづらくなり、カザンが4歳の時に両親共々アメリカに移住。


演出家を志望した彼はイェール大学などで演劇を学び、1933年にニューヨークの劇団〝グループ・シアター〟に入団し、俳優として舞台に立ちました。


1942年にソーントン・ワイルダーの戯曲『危機一髪』を演出し、これがビューリッツァー賞を受賞したことで名が知られると、1944年には映画『ブルックリン横丁』で初メガホン。

1947年の『紳士協定』ではユダヤ人問題をテーマにした初の映画として話題を呼び、早くもアカデミー賞の作品賞・監督賞・助演女優賞を獲得。


また同年には戯曲『欲望という名の電車』を演出し、大成功。


マーロン・ブランドが出演したこの舞台はピューリッツァー賞・ニューヨーク劇評家サークル賞などを獲得。


この頃、彼はグループ・シアターの同窓生らと共に、俳優養成学校〝アクターズ・スタジオ〟を創設。

ここからは前述のマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンなど多くの名優を輩出しました。

この学校で教えた〝メソッド〟を習得した俳優を起用したカザンの作品・・・映画版 『欲望という名の電車』 (1951年) や 『エデンの東』(1955年)な どは、ハリウッド映画界に新風を吹き込みました。

    


しかしそんなカゾンには、脚光を浴びるのとは逆に影の部分も・・・。
それは、1950年代にアメリカで吹き荒れたレッド・パージ。

グループ・シアター時代に短期間ながら共産党に入党していたことがあった彼は1952年、米下院非米活動委員会に共産党員の嫌疑をかけられます。

彼はそれを否定するために司法取引し、共産主義者の疑いがある映画関係者ら11人の名を同委員会に提出。

そのおかげでは彼はその後も映画界で活躍することが出来ました・・・が、当然仲間内を売った形となり、裏切り者の烙印を押されることに。

その後もメガホンを取った彼は、1998年に長年の映画界に対する功労を評価され、アカデミー賞・功労賞を授与されました。

しかしその授与式の際、一部の映画人からはブーイングが出たり、恒例のスタンディング・オベーションをせず座ったまま腕組みをして無言の抗議をする者がいて、会場は異様な雰囲気になったといいます。

       


そんな毀誉褒貶に包まれた彼が94歳でこの世を去ったのは、2003年9月28日のことでした。

嫌疑をかけられた時に他人の名を出さなかったら、彼自身はどうなったのか? 

それは知る由もありませんが、もし皆さんが同じ立場に立たされたらどうするでしょうか。


非常に難しい決断を迫られると思いますが・・・。


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