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円舞曲

日本の年末年始といえば紅白歌合戦やゆく年くる年ですが、音楽の都・ウィーンでは、ウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサートが恒例行事。

そこで演奏されるのが優雅な円舞曲の数々・・・今日は、その〝ワルツの父〟と言われる

 ヨハン・シュトラウス1世

    Johann Strauss I


の命日・没後に170周年あたります。

         


シュトラウスは、1804年ウィーンに生まれました。

実家は居酒屋を経営しており、そこに出入りしていた所謂流しの音楽家たちの奏でる素朴なワルツを聴いていたことが、彼の音楽性の素地を築いたそうな。


しかし店の経営は思わしくなく、彼の幼少時に倒産。


母は過労死し、父親は借金苦でドナウ川に投身自殺してしまい、親戚に引き取られ製本屋で奉公を強いられるという、過酷な幼少期を過ごしました。


暫くしてその環境から飛び出した彼は、かつて居酒屋で見ていたのと同じ流しの音楽家に。

そして15歳の時にミヒャエル・パーマーの楽団に入り、そこで年上の楽団員ヨーゼフ・ランナーと知り合います。

やがて放漫経営を続けるパーマーに愛想を尽かせたランナーに誘われるまま、シュトラウスは楽団を離脱。

パーマーの曲を演奏できなくなった2人が演奏する曲を自ら作る必要に迫られたことが、後に〝ワルツの父〟を生むことに・・・。

ランナーと組んだ楽団は絶大な人気を博し、演奏依頼に応えきれなまくなった2人は楽団を2つに分けて、それぞれが率いるように。

その頃シュトラウスは、同じく居酒屋に生まれた4つ年上のマリアと出会い、彼女が妊娠したことで結婚。

その3ヶ月後に生まれたのが、後に〝ワルツ王〟といわれることになる、長男のヨハン・シュトラウス2世でした。

音楽室に飾られている肖像画は、父親ではなくこの髭もじゃの息子の方が圧倒的に多いと思います。(

       


ところが、長男が生まれたことで給料アップを要求したもののランナーに拒否されたことで2人の間には隙間風が吹くようになり、やがてはコンサート会場で取っ組合いするまで悪化し、喧嘩別れ。

その後は2人がライバル関係となって張り合い、ウィーンでは〝ワルツ合戦〟が勃発。

しかし1843年にランナーが亡くなってワルツ合戦は幕引き・・・になるかと思いきや、今度は息子のシュトラウス2世が挑戦状を叩きつけてきたのです。

実はシュトラウス1世、我が息子が自分と同じ不安定な音楽家を目指すことには大反対。

しかし彼は1933年から10歳年下のエミーリエと不倫関係に陥り、彼女の元に入り浸り・・・怒った妻が、その意趣返しとばかり息子が音楽家になるよう応援していたのです。

1844年に息子が作曲家としてデビューを果たすと、今度は〝カドリーユ対決〟と言われる父子対決が始まりました。

(その直後にシュトラウス1世は離婚。)

考えようによっては、2人が張り合ったおかげで私たちは数多くのワルツの名曲を楽しめることになったわけです。

その後宮廷舞踏会のま音楽監督に就任し、オーストリアの英雄を讃える有名な 『ラデッキー行進曲』 などを作曲したシュトラウス1世でしたが、イギリスへの演奏旅行から帰った後にエミーリアに生ませた子が罹った猩紅(しょうこう)熱を移され、1849年9月25日に45歳という若さであっけなくこの世を去ってしまいました。

妻との間に6人、愛人との間に8人の子を残して・・・。


ところで彼が亡くなった時、愛人のエミーリエは遺体を置き去りにして一切合切の家財道具を持ち去ってトンズラ。

かつて張り合った息子と前妻のアンナが引き取ったのだそうな。

男性諸氏は、人生の最期に子供や家族に迷惑をかけることのないよう、くれぐれもご注意を!うー

それでは最後に、ニューイヤー・コンサートでの彼の代表作・ラデッキー行進曲をお聴きいただきましょう。




 


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