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スパイ

日本においても、過去に〝ゾルゲ事件〟という国家の安全を揺るがす大事件が起きましたが、古今東西を問わずスパイに関わる事件はこれまでに多数起きています。

 ※〝ゾルゲ事件〟に関する過去記事は、こちら。(↓)



その中でも、19世紀末にフランスで起きた

 
ドレフュス事件

  Affaire Dreyfus

ほど、国内外に大きな影響を及ぼしたスパイ事件はないでしょう。


1870~71年にかけて勃発した普仏戦争に敗れたフランスは莫大な賠償金を背負わされ、経済は逼迫。

国民はロスチャイルドなどユダヤ系金融資本が勧める投資になけなしの貯金を注ぎ込みましたが、1882年に起きた金融恐慌で多くの投資銀行が倒産したため、全てを失うことに。

その結果、フランス国内では反ユダヤ感情・反ユダヤ主義が高まりました。

そんなフランス第三共和政が不安定な時期であった1894年9月に、フランス陸軍情報部がパリの駐在武官邸からフランス軍関係者にドイツのスパイがいることを示唆するメモを入手。


即座に漏洩した情報を知り得る立場にいた関係者の調査を開始した陸軍本部は、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉だったアルフレッド・ドレフュスを反逆罪で逮捕。


        

                     Alfred Dreyfus

しかしその根拠は、筆跡が似ていたという1点のみ。

彼がユダヤ系だったということが疑いをかけられた大きな理由・・・つまりは冤罪でした。

これを反ユダヤ系新聞『自由言論』紙がすっぱ抜き、「
ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っている」と軍部を糾弾。


 


引っ込みがつかなくなった軍部は、証拠不十分のまま非公開の軍事裁判で無罪を主張するドレフュスに有罪判決を下し、彼を南米の仏領ギアナ沖に浮かぶディアブル島に終身城塞禁錮としました。


ところがその後、新たに参謀本部情報部長な就任したピカール中佐がハンガリー生まれのエストラジ少佐が真犯人であることを突き止め、軍上層部に報告。


しかし面子にこだわる軍上層部はそれを握りつぶしたばかりが、ピカール中佐を左遷しエストラジに無罪を言い渡し釈放したのです。 

(※エストラジはその後渡英し、平穏な生涯を送ったそうな。)

失望した彼が事件の真相をドレフュスの弁護士に伝えたことから、再審が請求され、再び同事件は世間の注目を集めることに。

そして1898年1月、『オーロール』紙が作家エミール・ゾラの署名入りのフォール大統領宛ての公開書簡の形で、「余は弾劾す(J'accuse!  )」と題する記事を掲載。


        


その中でドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げ上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したのです。

        

                      Émile Zola


ところが反ユダヤ勢力から批判されたゾラは、逆に軍部に対する誹謗中傷で訴えられ有罪とされたため、イギリスに亡命する羽目に。

しかしその後、ドレフュス有罪の証拠を捏造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエストラジのものであることが明らかに。

再審が行われましたが、それでも判決は情状酌量で禁錮10年の有罪判決。


再び収監され失望の底に沈むドレフュスを救ったのは、大統領特赦でした。

再審請求を取り下げることを条件に出されたこの特赦により彼が釈放されたのが、今からちょうど120年前の今日・1899年9月19日のことでした。


ドレフュスに正式な無罪判決が出されたのは、それから7年後の1906年。

軍籍に戻り少佐に昇進した彼は、1909年6月に引退したものの、第一次世界大戦が勃発すると砲兵中佐として参戦したといいますから、天晴れな軍人根性の持ち主だったと言えましょう。


フランス国内では、これで一件落着となった感のある同事件ですが、国際的にはその後大きく歴史を動かすことに。

というのは、この事件を新聞記者として取材していたテオドール・ヘルツルがユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズムを提唱し、これがその後のイスラエル建国に繋がっていったのですから。

ただ残念ながら、1935年に没したドレフュスは、その瞬間を目にすることは出来ませんでしたが・・・。


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