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鬼先生

クラシック音楽ファンで、この方の名を知らなければモグリと言われても仕方ないでしょう。

今日は、その世界的指揮者・小澤征爾氏の育ての親、


 齋藤 秀雄 先生

の命日・45周年にあたります。

       

齋藤先生は、1902年に英語学者・斎藤秀三郎の次男として東京府・築地明石町に生まれました。

8人兄弟のうち音楽関係に進んだのは先生だけだったそうですが、秀雄少年が音楽に興味を持ったのは12歳の頃・・・最初に手にした楽器はマンドリンだったとか。

だかれといって、ご本人も音楽の道に進む気は当時なかったそうですが、マンドリン・オーケストラの指揮をするなど、その楽才の片鱗を見せてはいました。

しかし16歳から宮内省雅楽部の多元長についてチェロを習い始めた彼は、ドイツに留学して音楽の道を目指す決心を固めと、ドイツ語の習得を目指して上智大学に進学。

そして1922年に同大を退学して、当時作曲家・指揮者として有名だった近衛秀麿(総理大臣を務めた近衛文麿の実弟)に随伴しドイツへ。

ライプチヒの王立音楽学校に就学し、クレンケル教授に師事しました。

1927年に帰国した彼は、近衛秀麿を中心として結成された新交響楽団(N響の前身)の首席チェロ奏者として迎えられたものの、更に音楽性を高めるべくドイツに再留学。

ベルリン高等音楽院で、幸運にも当時チェリストとして神格化されていた名手フォイアマンに師事した彼は、2年後に帰国し再び新交響楽団の首席チェロ奏者に。


       

ところが同楽団では近衛秀麿や支配人と楽団員が対立、指揮者不在の状態に。

そこで外部から指揮者を招聘すると同時に、齋藤先生も2回ほど公演で指揮棒を取りました。

そしてチェリストとして演奏会で失敗をしたことが契機となり、先生は指揮者へと方向を転換。

1936年に新交響楽団の招きで来日した指揮者ヨーゼフ・ローゼンシュトックから指揮法に関する知識を習得し、それが戦後確立した〝齋藤メソッド〟の基礎となりました。

1941年に新交響楽団を退団した彼は、東京交響楽団の首席指揮者となり、戦時中もレコードの録音を敢行。

戦後1948年には井口基成・伊藤武雄・吉田秀和らと子供のための音楽教室を開設。


これが後の桐朋学園の音楽系学科開設に繋がります。

1961~72年まで桐朋学園大学教授を務め、その間小澤征爾・山本直純・秋山和慶各氏など多くの若手音楽家の指導に尽力。

1956年に出版された 『指揮法教程』 は、あのレナード・バーンスタインにも絶賛され、業界のベストセラーに。

1973年には文化功労者として顕彰されましたが、その翌年の1974(昭和49)年9月18日・・・癌により72歳でこの世を去りました。

齋藤先生の指導は大変厳しかったそうで、高校生時代の
小澤征爾は毎日のように指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を受けていたため、そのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたことがあったとか。


    


宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』に登場する厳しい楽長のモデルが齋藤先生だという説があるそうですが、現在だったら確実に問題視される指導法でしょうネ。

しかしそのお弟子さんたちが集まって、『サイトウ・キネン・オーケストラ』 を結成し、現在に至るまで定期的に演奏会をしているのですから、その指導法は間違っていなかったのでしょう。

あらためて、日本のクラシック音楽界の功労者のご冥福をお祈り致します。


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