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決 戦

日露戦争に於いて日本が優位に立つ分岐点となったのが 『日本海海戦』 であったことは、多くの方がご存知だと思います。

しかし、それより10年程前の日清戦争に於いても、同様に日本を勝利に導く海戦があったことは、意外と知られていないかも。 その


   黄海海戦

 The Battle of the Yalu

が行われたのが、今から125年前の今日・1894(明治27)年9月17日のことでした。



 

                 ×印が交戦地点


1894年上半期に起きた 『東学党の乱』 で混乱した朝鮮の支配権を争う形で対立した日本と清国は、同年7月25日に日本の連合艦隊が豊島西南沖で清国軍艦及び輸送船団と遭遇・交戦(豊島沖海戦)したことから戦争の火蓋が切られました。


(※清国が宣戦上論を発したのは8月1日、日本が明治天皇の8月1日付けの宣戦詔書を発したのは8月2日)

同月29日に朝鮮の成歓、30日には牙山を占領した日本軍は、9月15日に平壌付近で清国軍との戦いに勝利。(平壌の戦い)


そして9月12日から黄海で敵艦隊を探索していた薩摩出身の伊東佑亨(ゆうこう)司令長官率いる連合艦隊は遂に9月17日、清国の主力艦隊である北洋艦隊と遭遇し、午後1時前から戦闘を開始。


       
                  
伊東佑亨中将


北洋艦隊の旗艦 『定遠』 の排水量7,220トンの戦艦に対し、連合艦隊の旗艦 『松島』 は4,217トンの巡洋艦と倍近い差があり、当初の予想では連合艦隊が不利でした。

しかし通常砲・大口径砲の数も勝り、体当たりによる衝角戦術を得意とする北洋艦隊に対し、速射砲の数で優位に立ちスピードに勝る連合艦隊は、常に優位なポジションを取って速射砲を雨霰と敵艦に集中。


         

               速射砲を撃つ日本水兵


その結果、午後6時前に海戦が終了するまでに、北洋艦隊は『超勇』・『致遠』・『経遠』が沈没、他2隻が座礁、旗艦『定遠』を含む2隻が中破、3隻小破と、殆ど壊滅状態。


対する連合艦隊は旗艦『松島』他2隻が大破、1隻が中破したものの、その他の損害は殆どなし。

死傷者も連合艦隊298名に対し、北洋艦隊が850名と、大差が。


    

                      旗艦 『松島』


平壌の戦いとこの海戦に連勝した勢いに乗って戦争を制した日本は、1985年4月17日に調印された下関条約によって遼東半島・台湾・澎湖諸島などの割譲と、多額の賠償金を手にしました。

もっとも、これが西欧列強に危機感を抱かせ、後の三国干渉・日露戦争への導火線となったのですが・・・。


※三国干渉に関する過去記事は、こちら。(↓)


学校では日露戦争以上にサラッと通り過ぎてしまう日清戦争について詳細を知りたい方には、こちらのご一読をオススメします。

 『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 

                (大谷 正・著 中公新書・刊)

       


確かに日本はこの戦争に勝利しましたが、貧弱な装備と粗末や兵糧で大国の清を制したこと、また後の日本海海戦の勝利と合わせてカネのかかる軍備の近代化を疎かにし、「神国・日本は不敗」という結果論からくる精神性の重視に走った感は否めません。

(また黄海海戦や平壌の戦いの勝利を大々的に報じた新聞報道に国民が浮かれるというパターンが、後の戦争でも繰り返されました。)

勝って兜の緒を締めよ・・・という諺を忘れたことが、大東亜戦争への突入と敗北を招いたのかも。
うー


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