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恐妻家

皆さんは、SF映画の草分けともいえる、『2001年宇宙の旅』(1968年公開)を鑑賞されたことがあるでしょうか?

非常に難解な作品ですが、仮にご覧にならずともこのテーマ曲には聴き覚えがあるはず。 (↓)




今日は、この壮大な 『ツァラトストラはかく語りき』 を作曲した音楽家、

 リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス

      Richard Georg Strauss


の命日・没後70周年にあたります。


       


シュトラウスは1864年に、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者だった父親の子として、バイエルン王国(現・ドイツ)のミュンヘンで生まれました。

※〝ワルツ王〟ヨハン・シュトラウス一族と血縁関係はありません。

父親から徹底した音楽教育を受け、早い時期から作曲を始めた彼は、1882年に地元ミュンヘン大学に進学。

翌年ベルリンに移ると、マイニンゲン宮廷楽団を率いる指揮者ハンス・フォン・ビューローの補助役の地位を得て、1885年にビューローが引退すると、その後釜に。

それまではモーツァルトを信奉し、シューマンやメンデルスゾーンなど古典・保守的な音楽スタイルだったシュトラウスを変えたのは、ヴァイオリニスト・作曲家だったアレクサンダー・リッターとの出会いでした。

1833年生まれでシュトラウスより30歳以上年上だった彼は、マイニンゲン宮廷楽団のコンサート・マスターを務めている時にシュトラウスと出会い、数年間に渡って彼を励ましたとか。


       

               Alexander  Ritter


彼から刺激を受けたシュトラウスは、交響詩『ドン・ファン』を発表。

1889年に初演されたこの斬新な作品は、やはり聴衆からは賞賛の拍手とブーイング双方を浴びたとか。

冒頭ご紹介した 『ツァラトステラはかく語りき』 の発表は1896年でしたが、当時ベートーヴェンやモーツァルトら古典派の音楽を聴き慣れていた人々の耳に衝撃を与えたことは、容易に想像できます。


それに先立つ1894年に自ら指揮した『タンホイザー』でソプラノを担当した歌手パウリーネ・デ・アーナと熱愛の末結婚。

しかし彼女は相当性格がキツかったようで、シュトラウスはすっかり恐妻家に。

ところがそのストレスのおかげで、却って作曲に身を入れることになったようですから、この結婚は彼・・・いや、私たち音楽ファンにとっては幸いだったのかも。


       

            シュトラウス一家 右は息子・フランツ


そして1898年に最後の交響詩 『英雄の生涯』 を発表した彼の関心は、以後オペラに向かいます。

1905年に初演された『サロメ』 は、またしても評価が割れましたが、マーラーら当時の作曲家からは高い評価を受けました。

そして詩人ホーフマンスタールと組んで発表した 『ばらの騎士』 で、彼の評価は不動のものに。

(ホーフマンスタールとは、彼が亡くなるまで名コンビが続きます。)


彼の作品は、それまでのワーグナー、ヴェルディ、プッチーニらの作品が悲劇だったのに比べ、その多くが喜劇であることも特徴のひとつ。

また彼に関しては、第三帝国の帝国音楽院総裁の地位に就いていたことから、ナチスとの関係が取り沙汰され、今でも論議の対象になっています。

実際彼は日独伊防共協定を結んだ日本のために、『日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』 を書いていますが、彼の息子の妻がユダヤ人であったことなどから、第二次世界大戦後に行われた連合国による非ナチ化裁判では、無罪判決が出されています。


指揮者としてはカール・ベームやジョージ・セルらを育てたことからも優秀だったことが伺えますが、終戦後は裁判にかけられたこともあってひっそりと暮らしていたシュトラウスが

私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」

という呟きを遺して85歳でこの世を去ったのは、1949年9月8日のことでした。

それでは最後に、右手だけを動かすのがトレードマークだった彼の指揮ぶりをご覧いただきつつ、20世紀を代表する名作曲家の冥福をお祈り致しましょう。



 


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