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司令塔

1972年のミュンヘン五輪で悲願の金メダルを獲得した、男子バレーボール日本代表。

その代表選手として東京五輪で銅、メキシコで銀、そしてミュンヘンで金を獲得し、更に次のモントリオール大会まで連続出場を果たした唯一の選手がいるのですが、誰だかお分かりになるでしょうか?


今日はその日本男子バレーボールの黄金期を支えた名選手、


 猫田 勝敏 選手


の命日・三十七回忌にあたります。

        


世界一のセッターとしてその名を馳せた猫田選手は、1944年に広島で生まれました。


小学校からバレーを始めた猫田少年は名門・崇徳高校に進学し、全国大会を制覇。 

卒業後は社会人・専売広島 (現・JTサンダース) に入部します。


その頃、「世界を制するには、世界一のセッター育成が絶対条件」 と考えていた松平康隆・全日本監督の目に留まった猫田選手は、若干20歳、最年少の全日本メンバーとして東京五輪に出場。


以降1980年に現役を引退するまで、〝全日本の司令塔〟として活躍しました。


どんなピンチに立たされても冷静沈着で、顔色一つ変えない猫田選手。


大男たちの中に埋もれてしまいそうな、身長は私とほぼ同じ179cmというバレー選手としては小柄な身体にもかかわらず、コートの中では一番頼りになる存在に見えたものです。


スパイカーの最も打ちやすいボールを、どんな態勢からでも上げられたという彼の天才的なトスワークがあったからこそ、A~Dクイックや時間差攻撃などの変幻自在のアタックがミュンヘン五輪で花開いたのでしょうネ。        


そんなチームの柱だった猫田選手の試合中に発する口癖は、


「すまん」 「頼む」 「ありがとう」


だったとか・・・。 


〝ネコ〟という愛称で、皆に好かれた人柄が偲ばれます。

       


松平監督をして〝100年に1人の選手〟と言わしめ、2001年には国際バレーボール連盟より〝世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞〟を受賞。


現役引退後も監督としてバレーボールに深く関わり、指導者として大きな期待を担った彼を、しかし胃ガンが襲います。


再びコートに戻れることを信じて、手首より先には絶対に点滴の針を打たせなかったという猫田さんの願いは叶わず・・・1983(昭和58)年9月4日に体調が急変、39年の短い人生に幕を降ろしました。


サインを出すかのように人差し指を立て、「あと一本」 と呟きながら・・・。


結婚後も練習・合宿・試合で殆ど家に帰ることができなかった猫田さんが、枕元で見守る家族にかけた最期の言葉は、


「母ちゃん、すまん。」 


だったそうです。 全日本の僚友である大古誠司選手が

「全日本が負けるとマスコミはセッターの責任だと叩いたが、チームメイトは知っていた。 負けたのは全部アタッカーのミスで、勝った試合は全部猫田のトスのおかげだ。」


〝世界の大砲〟といわれたアタッカーにこう言わしめる天才セッターが再び日本バレー界に出現することを願いつつ、猫田さんのご冥福をお祈り致します。笑3

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