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殿 中

江戸城中における刃傷沙汰として有名なのは、赤穂浪士討入の原因となった浅野内匠頭が吉良上野介を襲った〝刃傷松の廊下〟。

実は江戸時代に起きた江戸城中での刃傷沙汰は、これを含め7回も起きているのですが、その中で最も大物といえる、大老の


 堀田(筑前守)正俊

が襲撃され落命したのは、浅野内匠頭ご乱心から遡る事17年前・・・今から335年前の今日のことでした。


正俊は1634(寛永11)年に、第3代将軍・家光に仕えた老中・堀田正盛の三男として生まれました。

翌年に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となって家光の嫡男・竹千代(後の第4代将軍・家綱)の小姓となり、家光の上意にて春日局の孫娘と婚約した、いわばサラブレッド。


1651年に家光が死去した際に父・正盛が殉死したことで、遺領の一部を与えられて守谷城1万3千石の大名となり、その後1670年に若年寄、1679年に老中と順調に昇進。

そして1680年に家綱が逝去した際、お世継ぎとして彼の異母弟にあたる綱吉を推挙。

結果的に綱吉が将軍になったことで、彼は1681年に大老を拝命。


その後牧野成貞と共に 『天和の治』 と呼ばれる政治を行い、財政面で大きな成果を挙げたのですが・・・51歳だった1684(貞享元)年8月28日、自ら若年寄にした従叔父・稲葉生休に突然脇差で一突きされ、駕籠で自邸に搬送された直後絶命してしまいました。  

          

                  堀田正俊の墓


幕府の記録としては、生休のご乱心による犯行とされ、また事件前年に淀川治水工事の役目から外されたことを恨んでいた、とも言われています。

しかし自分を若年寄に引き立ててくれた大老を、それだけの理由でわざわざ江戸城中で襲撃するものでしょうか?


そんな疑念を持つ者は多く、事件発生直後から陰謀説が囁かれていました。

曰く、暗殺を命じたのが他ならぬ綱吉だった、というもの。


        徳川 綱吉

                   徳川 綱吉

綱吉は正俊の後押しで将軍になったことで当初は彼を重用しましたが、自ら考案した 『生類憐みの令』 の発布について正俊が反対したことで、両者の間に溝が生まれた、というのです。

綱吉陰謀説の根拠としては、正俊の死後
『生類憐みの令』の取り締まりが一層厳しくなったこと。


そして襲撃した生休が無抵抗だったにも拘わらず、現場に駆け付けた大久保忠朝・戸田忠昌・安倍正武の老中3人らによって、その場で斬殺されていること。

ケネディ兄弟暗殺もそうですが、犯人(に仕立て上げられた人物)がすぐ殺されるケースは、往々にしてウラがありますからネ。

またこの暗殺後、綱吉は正俊の子を東北に所替えするなど堀田家に非常に辛く当たったり、後年正俊の霊に酷く怯えていた事実も。

正俊に仕えていた新井白石が、後に第6代将軍・家宣の侍講として用いられ 『正徳の治』 を行いましたが、その彼は綱吉の死後 『生類憐みの令』 を即時廃止したことも、正俊の恨みを晴らすためだったのかも。

私もその陰謀説肯定派ですが、更に両人が学問上でも対立していたとする、面白い書籍があります。


 『儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉』 

                   (小川 和也・著 講談社・刊)


      


儒学かぶれで講釈好きだった綱吉が、それに賛意を示さない正俊が疎ましくなった、という説に基づいた物語・・・興味のある方には、ご一読をお勧めします。

絶対権力者によって出世を果たしても、ひとたび嫌われると命まで狙われる・・・古今東西を問わず繰り返されている悲劇を見るにつけ、政治の世界・人間の性は変わらないことを痛感させられます。


※綱吉に冷遇された堀田家ですが、その後も家が絶えることはなく、正俊から4代後には幕末に老中首座を務めた堀田正睦(まさよし)が出ています。
しかし、彼もまた井伊直弼との主導権争いに敗れ、失脚してしまうのですが・・・。


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