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大親分

どの業界であれ、トップに立つのはそれなりの人物。

たとえ、それが犯罪の世界であっても・・・。

今から106年前の今日・1909(明治42)年6月23日に赤坂署に逮捕された

 仕立屋銀次

もその一人。 

なんだか必殺仕置人のメンバーみたいな呼び名ですが、彼(本名:富田銀次郎)は当時東京にいた約1,500人に上る掏摸(すり)の頂点に立つ、大親分でした。

        

         


彼は1866(慶應2)年に現在の東京都文京区駒込で生まれました。

父親は問屋業を営む傍ら、皮肉にも警察署の下請けとして強盗などの検挙にも関わっていた刑事でもあったとか。

12,3歳の頃、大丸呉服店の下請けだった仕立屋・井坂浜太郎の元に奉公に出た彼は、その後独立して御徒町に店を構えます。

そこまでは真面目な職人だったのですが、1人の女性との出会いが彼の運命を大きく変えてしまいました。

それは、彼にお針子の仕事を習っていた広瀬クニ。

実は彼女、当時スリの親分として名を馳せた〝清水の熊〟こと清水文蔵の娘だったのです。

既に主人の紹介した女性と結婚していたにもかかわらず26歳の時に彼女と内縁関係になった銀次郎は、表向きは仕立屋の看板を出していたものの、やがて悪の道に足を踏み入れることに。

店に顔を出す熊の子分たちの面倒を良くみた彼の信望は高まり、32歳で跡目を継ぎ(二代目)親分の座に。


そして銀次の凄い所は、彼自身は掏摸を一度もやったことがないのに手下を操って掏摸を個人の自営業(?)から組織化し、そのトップに君臨したところ。

稼ぎ場が汽車の車内だったことから彼らは
〝箱師〟といわれ、背広姿など一見紳士風に装って乗客を安心させて仕事に励んだそうな。

銀次はクニの母親名義で質屋を開業し、最盛期は500人もいた手下が持ち込んでくる盗品を売り捌くルートを開拓し、その上前をハネるシステムを構築。

関西の掏摸グループとも提携して販路を拡大すると同時に、その資金で貸し長屋を50軒以上をも所有し、家賃収入もかなりのものになったといいます。

日暮里の豪邸で暮らし、なんと村会議員まで務めたというから驚き。


              

        『仕立屋銀次』(本田一郎・著 中公文庫・刊)

しかし悪事はいつまでもうまくは行きませんでした。

当時は警察が裏社会の情報収集のためにスリや犯罪人を泳がせており、それ程取り締まりは厳しくなかったとか。

逆に銀次は警察から被害情報を入手し、手下が盗品をピンハネしていないかどうかチェックしていたというのですから、何をか言わんや。

よく映画に出てくるようなマフィアと警察の癒着みたいなものだったのでしょうが・・・そこに赤坂署長として赴任してきたのが、本堂平四郎。


前々から警察と犯罪組織の癒着を苦々しく思っていた彼に、絶好の機会が訪れました。


新潟県知事だった柏田盛文なる人物が、車内で金時計をすられたと被害届を出してきたのです。

それは伊藤博文から贈られた家宝ともいえる大事な品だったそうで、彼は「スリの親分に頼めば返してくれると聞いたので、これで手を打ってほしい。」 と当時としては大金の百円を差し出しました。

確かにそれまで銀次は警察の要請に応じて盗品を返したりして恩を売ったり、賄賂を渡していたことで高をくくっていましたが、本堂署長の指示を受けた刑事らは銀次宅に踏み込んで彼の身柄を拘束。


その後手下共を芋づる式に逮捕し、自宅から金・時計・鞄など約18,000点、荷馬車2台分もの盗品を押収。


結果、銀次は懲役10年の実刑を食らうことに。 

そして癒着していた警官も一掃、警察庁内にスリ係も新設されると以前のような蜜月時代は終わりを告げました。

それから約20年後の1930年、新宿三越で反物を万引きして捕まった老人がいたのですが・・・それが年老いた銀次でした。

その後の彼の消息は分からず、いつ亡くなったかも不明。

悪は必ず滅びる、の図ですが・・・もし彼がクニと出会わず真面目に仕立屋をしていたら、あるいは一代で会社を大きくして財を築けたかもしれません。

その商才(?)を善行に行かせたかもしれない、という想いと同時に人の出会いの恐ろしさをも感じざるを得ません。

果たして私にとって、女王様との出会いは吉? それても、凶?うー




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