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ぽてちん

タイトルだけでビンッときた方は、間違いなく私と同じ昭和世代の方でしょう。 その人の名は、

  おおとり けいすけ

鳳  啓助 さん


今日は、京 唄子さんとの軽妙な掛け合いで人気を博したこの漫才師の命日・没後25周年にあたります。


       

鳳(本名:小田 啓三)さんは、1923(大正12)年・・・関東大震災が起きる半年前に大阪で生まれました。

父親が剣劇俳優だった彼は、3歳にして祖父の劇団で子役デビューした、生まれながらの芸能人。

そして『瀬川信子一座』で座付き作家を務めていた1956年に、女優だった京唄子さん(1927-2017)と運命の出会いを果たします。


漫才コンビ〝唄子・啓助〟を結成して漫才を始め、後に結婚。


1965年に離婚しますが、コンビは解消しませんでした。
(唄子さんは、その後2度別の男性と結婚、鳳さんも再婚しています。)


そして2人で地方巡業をしていた時に脚本家・沢田隆治に認められ、当時彼が手掛けていた朝日放送の『てなもんや三度笠』に出演して脚光を浴びます。

かかあ天下の唄子さんにツッコミを入れられて、終始鳳さんがボケるという女性上位(?)スタイルは、それまでにない夫婦漫才として人気が高まりました。

しかし実は、やり込められている鳳さんがネタを全て作っていたそうな。

それ以前には劇団で作家・役者・殺陣師など全てをこなしたという、まさにマルチタレントだったのです。

ギャグとして有名になったタイトルの〝ぽてちん〟も、言葉自体には特に意味はないそうですが鳳さんのセンスによって生み出された〝下げ〟の一言だったとか。


そして1969年からフジテレビで始まった『唄子・啓助のおもろい夫婦』では、まさに漫才のような丁々発止の司会ぶりが視聴者にウケて、1985年まで16年も続く長寿番組となりました。

       


「エ~、鳳啓助でございます。」 で始まる漫才で、「君のことは忘れようにも思い出せない」 など様々なギャグを生み出した啓助さんは、
志織慶太の名で脚本家として活動したり、俳優として多数の映画にも出演。

1983年に肺梗塞を誤診され、死ぬ思いをしたことがあったそうな。

そんな啓助さんが上顎洞癌のリンパ節転移により71歳でこの世を去ったのは、1994(平成6)年8月8日のことでした。

この病気が発見された際、
医師から手術を勧められましたが、顔を切らないと手術が出来ないと説明を受け、「顔は芸人の看板だ」 としてそれを拒否。

民間療法や自然療法に頼り、また一切の延命治療を拒んだとか。

その背景には、過去の誤診からくる根強い医師に対する不信感があったようです。

最後に、彼の芸名〝鳳啓助〟の由来について。

その由来は、意外にも大島圭介という、明治維新前後に活躍した旧幕臣。


       


1833年に現在の兵庫県赤穂郡に医師の子として生まれ、あの中浜(ジョン)万次郎に英語を学び、1860年には日本初の合金製活版を作った逸材。

しかし明治維新に際しては幕臣として鳥羽・伏見の戦いから各地を転戦し、五稜郭で榎本武揚らと投降、以後は新政府で工部大学校の校長などを務め、枢密顧問官から男爵にまでなった人物。

鳳さんが、なぜこのあまり有名ではない旧幕臣の名を取ったかというと、彼が箱館戦争の際、

「もう十分戦った、無駄に死ぬこたぁない。」

と言って、降伏したことに共感したから。

鳳さんは、大東亜戦争中に役者をしていた時、その無駄に死なない人生を選択した大鳥圭介を尊敬して、鳳啓助の名で舞台に立ったのだそうです。

戦時中にそんな動機で芸名をつけた鳳さん・・・(失礼ながら)見かけによらず骨のある人物だったようです。

今日は鳳さんのご冥福を祈ると同時に、大鳥圭介の名も記憶に留めていただきつつ、最期に懐かしい夫婦漫才をご覧ください。



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