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文芸評論

今日は、日本文学界において文芸評論の第一人者と言われた、我が母校の大先輩、

 江 藤  淳 

の命日・没後20周年にあたります。


       


江藤(本名・淳夫[あつお])氏は、1932(昭和7)年に銀行員を務める父の長男として東京・新宿で生まれました。

不幸にも4歳の時に母を結核で失った彼は、地元の戸山小学校に入学したものの自身も病弱だった上に教師とソリが合わず、不登校に。

自宅の納戸に逃げ込んで、毎日のように谷崎潤一郎や田河水泡らの本を読み漁っていたそうですから、後に文芸評論家になる素地はこの時に出来たのかもしれません。

1942年に鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになって成績も上昇。

1946年に旧制湘南中学校(現・神奈川県立湘南高等学校)に進学すると、1級上にいた石原慎太郎氏と親しくなり、その交流は生涯続きました。


そして1948年に旧制東京都立第一中学校(現・日比谷高等学校)に転校し、在学中に伊藤静雄の詩集『反響』に出会ったことが、文学の道に進むキッカケになったとか。


高校時代に肺侵潤で一時期自宅療養を余儀なくされた彼は、東京大学文科Ⅲ類を受験するも失敗し、慶應義塾大学文学部に進むと、福沢諭吉に心酔。

そして在学中の1955年に 『夏目漱石論』 を江藤淳のペンネームで〝三田文学〟誌上で発表。

それまでの夏目漱石像を覆すこの論文は文学界に一石を投じ一気に注目を集めましたが、1958年には
大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を受け取っていたことが教授会から問題視され、退学を勧告される羽目に。

江藤氏はこれに抵抗し不登校を続ける傍ら、同年11月には文藝春秋から 『奴隷の思想を排す』 を、更に2ヶ月後には講談社から 『作家は行動する』 を発表し、大学院を中退。


その直後から石原慎太郎・谷川俊太郎・寺山修司・浅利慶太ら若手文化人と〝若い日本の会〟を結成。

1962年にはロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学し、同大で日本文学史を教えると、1964年に帰国。

1971年から東京工業大学助教授となり、後教授に。
この頃、代表作となる『勝海舟全集』の編纂に着手しています。


一方、交流のあった三島由紀夫の自決を〝軍隊ごっこ〟と決めつけるなど、歯に衣着せぬ論評は様々な論争を巻き起こしました。

また評論だけではなく、1961年から10数年かけて海軍大将・山本権兵衛を軸にして創設からの日本海軍の歴史を描いた長編小説 『海は甦える』 を連載しています。


       


しかし私が個人的に江藤氏が残した最も大きな功績は、戦後アメリカ(GHQ)によって行われたWGIPの存在を世に知らしめたことだと思っています。

※これに関する詳細は、こちらの過去記事をお読みください。(↓)


 



保守派の論客として精力的に活動してアメリカからの真の独立を唱え続け、東工大退職後、母校・慶大や大正大学の教授を歴任した江藤氏でしたが、大学院生時代に結婚した愛妻・慶子さんを1998年に失うと、その喪失感は大きかったようです。

妻の闘病生活を綴った 『妻と私』 を書き上げたものの、妻の死後脳梗塞の後遺症で苦しんでいたという江藤氏は、1999年7月21日・・・

[心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。 去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。

自ら処決して形骸を断ずる所以なり。

乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。]


という遺書を残し、自宅浴槽で手首を切り、67歳で自らの人生に幕を下ろしました。

その死については当時も様々な意見がありましたが、私は愛妻の元に自らの意思で行きたかったのだろう・・・と捉えました。

21世紀に生きる私たちとすれば、江藤氏が遺した業績を如何に後世に役立てるか? それを考え、行動に移したいものです。

今宵は久しぶりに 『海は甦える』 のページをめくりつつ、あらためて20世紀に活躍した文学界の巨星のご冥福を祈りたいと思います。
笑3


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