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軍 師

豊臣秀吉に三顧の礼をもって迎えられ、後に黒田官兵衛と並び〝二兵衛(両兵衛)〟と称された軍師・・・といえば、歴史通の方ならそれが誰かはもうお分かりでしょう。 今日は、その

 竹中 重治


の命日・没後440周年にあたります。

       

重治というよりも通称の〝半兵衛〟が有名な彼は、1544(天文13)年に美濃・斎藤氏の家臣で大御堂城の城主・竹中重元の次男として生まれました。

1560年に父の死去(もしくは隠居)により家督を相続し、父が築いた菩提山城の城主となって斎藤道三の息子・義龍に仕え、翌年に義龍が逝去すると、その子・龍興に仕えました。


その頃、道三の死後敵対関係となった織田信長が盛んに齋藤氏を攻めており、義龍時代はそれを防いでいたものの、若く酒色に溺れていた龍興の代になると家臣団にまとまりがなくなって弱体化。

また龍興は一部の側近だけをかわいがり、それまで織田軍の攻撃を防いでいた半兵衛を政務から遠ざけたため、彼は1564年に舅・安藤守就と共に龍興の居城・稲葉山城を襲い、龍興を追放。

半年ほど後に稲葉山城は再び龍興の手に戻った(半兵衛が放棄した?)ようですが、結局その稲葉山城は織田信長に攻め落とされ、1567年に斎藤氏は没落。


    
          稲葉山城             復元された天守閣(現・岐阜城)


半兵衛は1年ほど浅井長政の客分となった後、旧領に戻って隠棲していました。

しかしその才能を高く評価していた信長は、自らの家臣となるよう秀吉に命じて勧誘させます。

秀吉は三顧の礼をもって説得に当たりましたが、逆に秀吉の才能を見抜いていた半兵衛は信長ではなく秀吉の家臣に。

後に信長が浅井家と敵対した際には、かつて客分となっていた時代の人脈を生かして重臣を寝返らせ、織田軍の勝利に貢献。

秀吉が中国攻めの総大将となると、半兵衛もその遠征に随行。

また荒木村重が信長に対する謀反を企てた際、それを止めようとした秀吉の家臣・黒田孝高が信長に謀反人と誤解され嫡男の殺害を命じられた際は、秀吉に進言して別人の首を差し出すことで危機を切り抜けました。

しかし生来身体が弱く、女性のようだと評されていた半兵衛は、1579(天正7)年6月13日、播磨三木城攻略中の陣中で病死してしまったのです。

まだ35歳の若さでした。

もし秀吉より7歳若かった半兵衛が健康で、秀吉の天下統一後も軍師として彼に仕えていれば、もしかしたら朝鮮出兵を止められたかもしれません。

ただ一方、信長公記などの一次資料には殆ど半兵衛の名が出てこないため、彼に関して残されている数々の逸話の多くは後世の創作だとも言われています。


真偽のほどは定かではありませんが、信長・秀吉という歴史に残る名将に一目も二目も置かれた軍師であったことは、確かでしょう。

そんな策士が部下に1人でもいたら・・・なんてうらやむ経営者も少なくないでしょうが、今時はそんな有能な部下はすぐ会社を辞めて独立するでしょうから、無いものねだりは程々に。
あせあせ


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