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謀 反
今日は、日本史を大きく変えた出来事にして大きな謎を残すこととなった 『本能寺の変』 の首謀者、

 明智 光秀


の命日にあたります。


彼は美濃守護・土岐氏の分家である明智氏に生まれたとされていますが、生地については岐阜県可児市・山県郡美山町・恵那郡明智町の3説があり、また生も1526・1528年説があり、はっきりしていません。


明智氏は齋藤道三に仕えていましたが、光秀28歳の時に斎藤父子の争いに巻き込まれて一族の多くが討死に・・・光秀は明智家再興を願いつつ諸国を放浪。

良妻の誉れ高い妻・熙子は自らの黒髪を売って糊口を凌いだといわれています。


後に母方の関係で越前・朝倉義景に仕え、その義景を頼った足利義昭と脈を通ずる間柄に。

そして1571(元亀2)年の比叡山焼き討ちの実行部隊を指揮して武功を上げて近江国・滋賀郡を与えられた光秀は、義昭と袂を分かって信長の家臣となり、2年後には坂本城を築き居城としました。


プロ野球で言えば生え抜きではなくフリーエージェントで入団したようなものですが、頭脳明晰でかつ合理主義者であったという光秀を、信長は重用。

その彼が、信長の命により羽柴秀吉の毛利征伐の支援に向かう途中、突如 「敵は本能寺にあり」 と踵を返したのは、1582(天正10)年6月2日早朝。

1万3,000の軍勢が、女子供を含め僅か100名足らずで宿泊していた本能寺を取り囲みました。

多勢に無勢、信長は本能寺に火を放ち、自害して果てたのは、皆さんもご存じのとおり。


        

信長を討った後、光秀は3日後に安土城に入って信長の所有する金銀・財宝を奪って家臣たちに与えると、京都に帰還。

朝廷工作に奔走すると同時に娘を嫁がせていた細川家などに協力を求めるも、拒否されて孤立。

そして謀反の報を聞きつけ、毛利氏と和睦して急遽取って返した2万7,000の秀吉軍と1万7,000の明智軍が有名な〝天王山〟で激突した 『山崎の戦い』 が起きたのが、本能寺の変から僅か11日後の6月13日。

結果、明智軍は敗れ光秀は敗走。


落ちのびる途中、京都市伏見区にある本経寺近くの竹薮で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺され、最後は自害して果てたといわれています。

頭脳明晰で和歌や茶の湯も嗜む風流人であり、生涯側室を持たず正室のみを愛した実直な性格の持ち主。

更に信長に対し 「石ころのような身分から引き立てていただき過分の御恩を頂いた信長様に、一族家臣は子孫に至るまでご奉公を忘れてはならぬ 」 と家法書に認め忠誠を誓っていた光秀が、なぜ裏切ったのか?

天下獲りを狙った野望説や、信長の独断によって人質となっていた母親が殺されるなどした積年の怨恨説、また他の武将のようにいつか放逐されるという不安説、更には朝廷黒幕説などがありますが、現在に至るまで定かではありません。

また最近では光秀の子孫にあたる方が新説を唱える著書を出版されましたが・・・皆さんは、その動機をどう分析されるでしょうか?


私は真面目な性格故に、誠心誠意尽くした信長に飲めない酒を強要されたり理不尽な扱いを受けたことが積もりに積もった末の爆発だったのでは? と推測します。

経験上、大人しくて真面目な優等生がからかわれたりいじめられ続けると、ある日突然周囲が驚くような行動に出ることがあるのを知っている故に・・・。

いずれにせよ謀反は失敗に終わり、彼はもちろん娘の細川ガラシャ夫人も悲劇的な運命を辿ることになりました。

人間、辛抱が肝心。 

一時の気の迷いは家族をも巻き込む悲劇になることを、光秀は身を以って私たちに教えてくれたようです。




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