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ポンちゃん

今日のブログ・タイトル、何だか麻雀用語みたいですが・・・実はこれ、あるプロ野球選手のニックネームなんです。

それが誰か分かるのは、私より年上の方が殆どのはず。 正解は、


 大下 弘 選手

今日は、敗戦直後の日本にあって、赤バットの川上哲治選手と共に〝青バットの大下〟として人気を二分し、美空ひばりと並ぶ国民的大スターであったこの名選手の命日・没後40周年にあたります。 


       


大下選手は、1922(大正11)年に神戸市三宮で生まれました。

3歳の時に父親が亡くなったため、母親が女手一つで小料理店を営みつつ彼を育てたそうですが、13歳の時にその母親と共に台湾へ移住。

高尾商業高校時代には野球部で投手としてプレーしながらも、陸上競技や柔道・相撲なども掛け持ちでこなすスポーツ万能選手で、かつ文芸部員でもあり首席で卒業するという、まさに文武両道の青年でした。

明治大学予科から同大商学部に進学し東京六大学でプレーしましたが、戦局悪化に伴い1943年リーグ戦が中止となり、同年学徒出陣で陸軍航空士官学校に進むと、特攻隊を志願。

しかし出撃直前に終戦を迎えたため、明大商学部に復学することができました。

そして明大野球部の先輩・横沢三郎さんに誘われてプロ野球・セネタース
(現・日本ハムファイターズ)入りを決めた大下選手は、1945年12月に行われた東西対抗戦に出場すると、3戦に出場して16打数8安打12打点・ホームラナン1本の大活躍で最優秀選手に選ばれ、俄然注目を集めるように。

翌年4月に出版されたベースボールマガジン創刊号の表紙に起用されたことからも、端正なマスクも相まってその人気ぶりが伺えます。

       


翌年には投手兼任ながら20本の本塁打を放ってタイトルを獲得。

その一方でホームラン狙いの強振をするため変化球に脆く、三振もリーグトップの80を記録。

しかしその豪快なバッティングは敗戦で沈む日本人を元気づけて空前の本塁打ブームを巻き起こし、川上選手も本塁打狙いのフォームに変えたとか。

※ブログタイトルの〝ポンちゃん〟は、打球をポンポン飛ばすことからついた渾名。


そしてその川上選手が赤バットを使っていたのに対抗し、1947年からバットに青いラッカーを塗って〝青バットの大下〟と言われた彼は、この年本塁打王と打点王の2冠を獲得。

※しかしその塗り方が雑でボールに青色が付着してしまうため、審判団から止めさせられたとか。


1949年には、札幌円山球場で推定飛距離170mの大ホームランを放ったり、9回の試合で7打席7安打という史上唯一の快記録もマーク。

1952年に金銭面での球団との確執から西鉄にトレードされると、中西・稲尾選手らと日本シリーズ3連覇を達成し、西鉄黄金時代を築きました。

1959年に現役を引退しましたが、生涯打率.303、本塁打201、長打率.490はご立派。

引退後はNHKなどで野球解説者を務め、また打撃コーチを務めるなどした後、1958年には東映フライヤーズの監督に就任。


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サインなし・罰金なし・門限なしの〝三無主義〟を打ち出したものの、生来の人の好さが災いしてかチームは最下位に低迷し、シーズン途中に辞任。

その後は大洋ホエールズの打撃コーチを務めた後、野球王国・千葉に転居して少年野球チームの監督を務めましたが、1978年6月にグラウンドでの指導中に脳血栓で昏倒。

左半身に麻痺が残ってしまい、温泉や自宅で療養に務めましたが、1979(昭和54)年5月23日に56歳の若さで帰らぬ人となりました。

後年、致死量の睡眠薬を服用しての自殺と公表されましたが・・・体調が元に戻らなかったことを悲観したのかもしれません。

美空ひばりさんと人気を二分したかつてのスター選手としては、実に残念な最期でした。

この大下選手について詳しく知りたい方には、ノンフィクション作家として有名な辺見じゅんさんの


 『大下弘 虹の生涯』 (新潮社・刊)

       

のご一読をお勧めします。

終戦前後のプロ野球の内情や人間関係も細かく描写されており、オールド・ファンにとって読み応え十分ですから・・・。

それでは最後に貴重なホームラン映像をご覧いただきつつ、ポンちゃんのご冥福をお祈り致しましょう。
笑3 



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