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学び舎

拙ブログの読者の皆さんが全員卒業したであろう、小学校。


(※この小学校という呼称は、1685年に長崎・対馬藩において家臣の子弟教育のために設置された学校が小学校と名付けられたことが発祥だとか。)


江戸時代には寺子屋制度がありましたが、明治政府になった後の1872(明治5)年に発布された学制によって近代教育制度としての初等教育は小学校尋常科で行なわれることとなり、3年後には全国に約24,000校の小学校が設置されました。


しかし日本初の小学校は、それより3年前・・・今からちょうど150年前の今日・1869(明治2)年5月21日に、京都で開校した


 上京第二十七番組小学校 (柳池校)

 下京第十四番組小学校 (修徳校)


の2校でした。 

※当時の京都には、上京・下京のそれぞれに番組(学区)という行政区画が置かれ、その番組毎に小学校が創設されたので、〝番組小学校〟と呼ばれたそうな

そしてこの両校・・・実は官立ではなく、民営の学校だったのです。


        

                 上京第二十七番組小学校


京都では混迷する日本の将来を案じ、早くから教育が大事と考えた画家・森寛斎を中心に多くの寺子屋経営者や書家などが寺子屋の近代化について話し合っていたといいます。


既に明治維新前に小学校建設の建白書を町奉行所に、そして明治維新直後にも府知事宛てに小学校建設の急務を訴える口上書を提出。


これを受けて府は1868年(明治元)年に 『小学校建営の布達』 を発布し、番組(地区)ごとに学校を造る際の基本図面を提示。


しかし府からの貸付金だけでは足りなかったため、寄付を募ったり〝かまど銭〟と称して組内の家々から児童の有無を問わず徴収して学校運営資金に充てたとか。

※この寄付の中心となったのが、香商・鳩居堂の7代目当主だった熊谷直孝(1817-1875)。

彼は
頼山陽らと親交があった勤王派町人として知られ、倒幕運動に資金援助を、更に明治維新の際には新政府に1,500両もの資金を調達して〝京都大年寄〟と言われた人物。

        

    京都最古といわれる、1859年に撮影された湿版写真『熊谷直孝像』

この2校開校の後僅か7ヶ月で、京都では64もの(番組)小学校が立ち上がりました。

まだ教科書のない時代でしたが、府独自の規則により筆道・算術・読書の3教科を中心に京都の伝統工芸(染物・織物・焼き物)の基礎となる日本画の教育にも力を入れたといいます。


そのおかげで北大路魯山人など多くの優れた芸術家が、番組小学校から輩出されました。


太平洋戦争時は国民学校と名を変えましたが、その一時期を除いて明治維新以降子供の教育の場となっている小学校・・・普及し始めた当時(1874年)の就学率は男子46%・女子17%、全体で32%だったとか。


現在では義務教育化し100%が入学していることと比べると、まさに隔世の感があります。


しかし明治時代の黎明期にはなかったであろう深刻なイジメや受験戦争など、多くの問題を抱えていることも事実。


教育現場の荒廃が叫ばれて久しいですが、こういった小学校の歴史を鑑みるに、その原因の多くは親である大人たちの教育に対する考え方にあるような気がします。


京都の人々が政府に先駆けて小学校を立ち上げたのは、国家や京都の将来に対する危機感・大局観から。


然るに現在の多くの親・大人たちは、我が子の進学や就職などの行く末を案じることが最優先。


子供がいなくとも学校建設資金を拠出した明治時代の京都人と、払えるのに給食費すら払おうとしない現在の親・・・その違いは歴然です。

子供の教育は何のために行うのか? 


そして学校の存在意義は何なのか?

小学校が初めて立ち上がった記念日の今日、あらためて考えてみたいものです。


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