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降 伏

今からちょうど150年前の今日、日本史上における最後の内戦が終結しました。

それは、北海道を舞台にした


 箱館戦争

1868(慶應4)年4月、勝海舟と西郷隆盛による協議の結果、江戸城は無血開城され、新政府軍が江戸を制圧することに。

しかし将軍・慶喜に徹底抗戦を主張していた幕臣・海軍副総裁だった榎本武揚は、新政府軍への軍艦引き渡しを渋り、富士山丸ら4隻の軍艦を引き渡したものの、開陽丸ら4隻の主力艦と咸臨丸ら4隻の輸送船で品川沖から脱走し、彰義隊の残党ら約2,000名の幕臣らを乗せ東北に向かいます。


        

                   榎本武揚

途中悪天候で咸臨丸など2隻を失うも、9月には仙台沖に到着。

しかし庄内藩や会津藩らが相次いで降伏したため、榎本は仙台藩に貸与していた輸送船を加え、更に旧新撰組副長・土方歳三ら旧幕臣からなる伝習隊・衝鋒隊らの兵を吸収。


新政府軍宛てに蝦夷地開拓の嘆願書を送ると、同地に向け10月中旬に出帆。


当時新政府は箱館府を設置していましたが、僅かな府兵と松前藩兵しかおらず、弘前藩らに依頼して造幣し、榎本艦隊を迎え撃ちました。

そして10月21日に榎本艦隊が箱館の北・内浦湾に到着し、3,000名が上陸。

翌日夜に箱館府軍が彼らの宿営地に夜襲をかけたことから戦端が切られました。



しかし戦力に勝る旧幕府軍は、上陸後5日で箱館を占領し10月26日に五稜郭に無血入城すると、艦隊を箱館に移動。


逃走した松前藩兵を追うように松前城に出陣すると、藩主・松前徳広が内陸に移動していたことで簡単に落城し、松前藩兵は投降。

更に藩主が側近らと弘前藩に逃亡したため、11月下旬に蝦夷地は旧幕府軍によって平定されました。

12月15日に箱館政権を樹立し、選挙(入札)によって榎本が総裁に就任。


    

                  五稜郭本陣


しかし新政府の岩倉具視は、旧幕府軍から届いた蝦夷地開拓の嘆願書を却下し、討伐のため津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵計約1,000名を海路で青森に送ります。

しかし厳寒の冬季に入るため、戦闘は春までお預けに。


翌年2月には新政府軍約8,000名が青森に集結。

そして最新鋭の装甲軍艦・甲鉄ら軍艦4隻と運送船4隻が青森へ。

途中宮古湾で南下してきた旧幕府軍を撃破し青森に到着すると、陸軍と共に箱館へ進軍を開始。

4月中旬以降、各地で戦闘が起きましたが、兵力・装備に勝る新政府軍が優勢で、旧幕府軍は五稜郭へ撤退。

5月に入って箱館市街を制圧 (※土方歳三がこの戦闘の際に戦死したことは、今月11日の拙ブログ記事に掲載) した新政府軍は、5月12日には箱館湾に浮かぶ軍艦・甲鉄に五稜郭に対する砲撃を開始。


    


戦況が一方的になると、旧幕府軍からは脱走兵が相次ぎ、勝敗は決しました。

同日、新政府軍参謀・黒田清隆から降伏が勧告されましたが、榎本は拒否。


しかし新政府軍から五稜郭総攻撃の予告を受け、旧幕府軍幹部は合議の上降伏を決定。

1869(明治)年5月18日、箱館城を開城した旧幕府軍は降伏し、これにて戊辰戦争は終止符を打ったのです。


    

                 現在の五稜郭


さて、普通なら敗軍の大将は通常捕らえられ処刑されるのが通例ですが、榎本武揚は処刑されるどころか敵だった新政府に要人として参画し業績を残しました。

 ※榎本武揚に関する過去記事は、こちら。(↓)


それは敵将・黒田清隆が助命嘆願したからなのですが、それには理由がありました。


        

                   黒田清隆


戦争終結数日前の5月14日、降伏勧告を拒否した武揚が、自らがオランダ留学時に手に入れ所持していた国際法や外交に関する貴重な書物 『海津全書』 を、戦火で焼失するのは国益を逸すると考えて黒田清隆に届けさせたのです。

それに感じ入った黒田は、返礼として旧幕府軍に酒樽や鮪を届けさせ、これを受け取った榎本は返礼と一時休戦を申し入れたのです。

このやり取りで、黒田が榎本の人格・器量を高く評価したことで、助命嘆願に至った・・・いうわけ。

天才は天才を知るというか、男気に感じ入ったのでしょう。

芸だけでなく、徳は身を助けるんですネ。
笑3


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