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副 長

今日は、あの新撰組の中で当時最も女性にもてて、現在でもその生き様から人気№1と言っていいイケメン隊士、

 土方 歳三

の命日・没後150周年にあたります。


        


土方は1835(天保6)年に、現在の東京都日野市にあった豪農の10人兄弟の末弟として生まれました。

父親が彼の生まれる前に結核で、また母親も彼が6歳の時にやはり結核で亡くなっていたため、次男夫婦に育てられたそうですが、幼少期から暴れん坊だったという彼は、実家秘伝の〝石田散薬〟を行商しつつ各地の剣術道場で修業したとか。

そして姉・のぶの嫁ぎ先であった佐藤彦五郎が自宅に開いていた天然理心流の道場に出入りしていた際、そこに試衛館から指導に来ていた後の新撰組局長・近藤勇と知り合い、正式に入門。

 ※近藤勇に関する過去記事は、こちら。



そして1863年2月、彼は試衛館の仲間と共に第14代将軍・徳川家茂警護のため浪士組に応募し、京都へ。

その半年後に起きた 『八月十八日の政変』 後、壬生浪士組の活躍が評価されて新撰組が発足。

近藤が局長の座に就くと、土方は副長となって近藤の右腕として京都の治安維持にあたりました。


そして翌1864年6月に起きた池田屋騒動で、新撰組の名が世間に知られるように。

 ※池田屋騒動に関する過去記事は、こちら。(↓)


 https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11726568422.html


猛者揃いの新撰組内部を土方は副長として厳しく律し、たとえ幹部であろうとも規律を破った者は容赦なく切腹させ、隊員に恐れられたとか。

それ故に、新撰組隊士の死亡原因第一位は、切腹だったという説も。


1867年6月、彼は幕臣に取り立てられますが、その僅か4ヶ月後に第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って幕府は事実上崩壊。

翌1868年1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで新撰組を率いて戦ったものの敗れ、江戸に撤退した彼は
甲陽鎮撫隊を組織して甲斐国に向かいますが、甲州勝沼の戦いでまたしても敗北。

そして近藤勇が新政府軍に捕えられ、同年4月25日に斬首されると、土方は会津でケガの療養を行い、会津戦争を経て仙台へ。

そこで榎本武揚率いる旧幕府軍と合流し、蝦夷地へ。

 ※榎本武揚に関する過去記事は、こちら。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12315237014.html


五稜郭入りして、榎本を総裁とする蝦夷共和国で幹部となった土方でしたが、1869(明治2)年5月11日から始まった新政府軍の総攻撃の際、馬上で指揮していたところを銃撃され絶命。

34歳の若さでこの世を去りました。


遺体の埋葬先が未だはっきりしていないという彼に関しては、これまで多くの小説やドラマで様々なエピソードが描かれていますが、そういったフィクションでなく実像を知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『土方歳三日記 上・下 (菊地明・著 ちくま学芸文庫・刊)


 


同書は〝日記〟と称していますが、彼自身の日記ではありません・・・しかし彼自身の手紙や関係の旧家に伝えられた文書、隊士ら同時代人の諸記録等の夥しい史料を集め、綿密な考証に基づいて時系列に再構成したもので、読み応えは十分です。


今宵は久しぶりに同書のページをめくりつつ、規律を重んじ武士・剣士として生きた半面、洋装の写真を残したり洋式軍備に関心を示すなどの合理主義者であった〝鬼の副長〟の冥福を祈りたいと存じます。


 


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