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浮 雲

作品を読んだことがなくとも、その作者の珍名(失礼!)をご存知の方は少なくないはず。

今日は、明治時代の文学界にその名を残す小説家・翻訳家、


ふたばてい  しめい
 二葉亭 四迷


の命日・没後110周年にあたります。


        


四迷(本名:長谷川辰之助)は1864(元治元)年に尾張藩士・長谷川吉数の子として江戸・市ヶ谷にあった尾張藩上屋敷で生まれました。(※異説あり)

4歳の時に母・志津の実家のある名古屋に移り、そこで漢学を、名古屋藩学校入学後はフランス語を学びました。

洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)卒業後、ロシアの脅威を感じた彼は陸軍士官学校を受験するも失敗。

仕方なく外交官を目指した彼は、1881年に東京外国語学校(現・東京外大)露語科に入学、そこで次第にロシア文学に心酔していきます。

しかしその露語科が東京商業学校(現・一橋大学)第三露語科となるに伴い1886年1月に退学届けを出した彼は、1883年から2年ほど専修学校(現・専修大学)に通学・卒業した後、小説家・坪内逍遥宅に毎週通うように。

彼の勧めで1886年に 『小説総論』 を発表。


そして翌年から外国語学校時代に親友だった、後に東芝専務となる大田黒重五郎をモデルとして 『浮雲』 の執筆に着手。

※その第一篇を坪内逍遥の本名・坪内雄蔵の名で刊行しましたが、そのことと作品の出来の悪さに自分で腹を立て 「くたばって仕舞(しめ)え」 と罵ったことから、以後ペンネームを二葉亭四迷という当て字にしたそうな。  かなり変わった方ですネ。


長編小説 『浮雲』 はその後1889年まで3回に分けて刊行されましたが、同作は言文一致(日常会話で使う言葉と同じ口語体で文章を書くこと)体で書かれた初めての小説として、当時の文学者に大きな影響を及ぼしたそうな

       

                『浮 雲』 (新潮文庫・刊)

しかし四迷本人は最後までこの作品に満足できず、その後約20年に渡って小説を書きませんでした。


1888年には近代翻訳の嚆矢と言われるツルゲーネフの 『あひゞき』を刊行しましたが、翌年に内閣官報局に奉職し、執筆稼働からは遠ざかることに。


そして社会主義に傾倒した彼は、貧民対策について考えるように。


貧民街に出入りするようになって出合った娼婦が、1893年に結婚した最初の妻・福井つねでした。


しかし彼女とは1女をもうけた後1896年に離婚。

翌年に内閣官報局を辞し
海軍編修書記となるも、1899年に辞職。

同年に東京外国語大学教授となるも、1902年にまたも辞職。


直後にハルピンに渡り徳永商会の相談役に、その後数ヶ月で北京の京師警務学堂事務長に転職するも翌年には帰国するなど、不安定な生活が続きます。

まさに、彼の人生が〝浮雲〟の如くフワフワ。

1904年に大阪朝日新聞社・東京出張員となり、志野りうと再婚。
1906年から 『其面影』 の執筆を始め小説家としての活動を再開。

読者には好評だったようですが、彼自身はやはり満足できなかったようです。


1908年に朝日新聞社特派員としてロシアに駐在したものの、白夜で不眠症に悩まされ、更に翌1909年行われたウラジミール大公の葬儀で雪の中で立ち続けたことから発熱。

肺炎から肺結核に侵され、友人の説得で4月10日に日本郵船の加茂丸に乗って帰国の途につきましたが、その船中で容体が悪化・・・5月10日に45歳でこの世を去りました。

ロシア(語)に通じながら、人生で最も活動できる時期が日露戦争と重なるという不運がなければ、もしかしたら違う人生を歩み、もっと多くの作品を残せたかも。

いや完璧主義者だっただけに、やはり生涯満足できる作品は残せなかった?

その判断は、皆さんが彼の作品を読んで判断してみてください。


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