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強 権

今日は、ソ連からロシア連邦へ・・・という大国の民主化を主導した政治家、

  ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン

  Борис Николаевич Ельцин


の命日、日本流にいえば十三回忌にあたります。

       

エリツィンは1931年にウラル州ブトカで生まれました。

第二次世界大戦中に、武器庫から盗み出し分解しようとした手榴弾が爆発し、左手の親指と人差し指を失った彼は、プーシキン高校からウラル工科大学に進学。

1955年に同大を卒業後はスヴェルドロフスク州の建設会社に勤めていた彼は、1961年にソ連邦共産党に入党すると、7年後には同党専従に。

1976年にスヴェルドロフスク州の党第一書記に就任すると、その翌年には党の指示によりニコライ2世一家殺害現場のイバチェフ館を取り壊すなどしてその忠実な働きぶりをブレジネフに評価され、1981年には党中央委員に出世。


ゴルバチョフの部下として改革推進を行いましたが、ペレストロイカの遅れやブレジネフ派の大物リガチョフを名指しで非難したため、モスクワ市の党第一書記を解任されるなど、一時期干されました。


しかし1989年3月の人民代議員大会選挙にモスクワ選挙区から立候補して当選し政界復帰を果たすと、急進改革派の地域間代議員グループに属し、民主綱領派のリーダーに。

そして翌年5月にはロシア共和国の最高会議議長に就任すると、2ヶ月後にソ連共産党を離党し1991年6月に行われたロシア共和国大統領選挙に出馬すると、見事当選。

7月に大統領に就任すると、その翌月にソ連副大統領ケンナジー・ヤナーエフを擁立する守旧派が起こした〝8月クーデター〟の際には、戦車の上からロシア国民に対して演説をぶち、徹底抗戦。


    


軍も支持しなかったことで、結果的にクーデターは失敗。

この事件を契機としてゴルバチョフの求心力は一気に低下し、エリツィンの人気は急上昇。

同年11月、彼はウクライナとベラルーシの最高権力者と話し合ってソ連からの離脱に合意。

同月に起きたベルリンの壁崩壊と相まってソ連邦の崩壊は不可避となり、翌12月25日にゴルバチョフが大統領を辞任したことで、ソ連はその歴史に幕を下ろしました。


ソ連崩壊後もロシア共和国大統領として民主化を主導したエリツィンは、アメリカとの関係を改善すると同時に市場主義経済を導入。

しかし急激な変化は国内経済を混乱させ、1992年には前年比2510%ものハイパーインフレを引き起こし、庶民の生活を苦しめることに。

1993年には副大統領や議会と対立し、9月に議会の大統領解任劇に発展すると、彼は
最高会議と人民代議員大会を強制解体。

翌10月には反大統領派がたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し力づくで制圧すると、12月には大統領に大きな権限を与える新しいロシア連邦憲法制定に成功し、西側諸国もエリツィンを支持。


しかし1994年にデノミを行うも経済の混乱は収まらず、またチェチェン侵攻の失敗や彼自身の心臓病手術による健康不安もあって、人気は急落。

1996年の大統領選では辛うじて勝ったものの、首相を次々換えるなど政権は安定せず、また親族を取り込む縁故政治に対する批判や議会で共産党が第一党になったことなどからその支配力は大幅に低下。

そして1999年の大晦日にテレビ演説を行い、電撃的な辞任を表明。

後継者として次期大統領に指名したのが、現在同国の絶対権力者・プーチンでした。


    


その後悠々自適の年金生活を送ったという彼が多臓器不全により76歳でこの世を去ったのは、2007年4月23日のことでした。


2日後に国葬が営まれ、プーチンがこの日を 『国民服喪の日』 にすると宣言したのは、ある意味当然のことだったでしょうネ。

大国の大きな歴史の転換期を指導した彼に対して毀誉褒貶があるのは致し方ないですが、彼以外の人間が大統領だったらロシアは果たしてどうなっていたのか?

個人的に思うのは、エリツィンにしろプーチンにしろ、国難の時代には強力なリーダーシップを発揮する政治家が求められるということ。

果たして日本には、そんな政治家が今後出てくるのかどうか・・・。
うー


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