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暴 走

近代日本史、特に第二次世界大戦前の軍部が台頭する時期について学ぶと、

  関 東 軍

という名が盛んに出てきます。


若い世代の方には、首都圏を中心として関東地方を管轄する軍隊・・・なんて勘違いする方がいらっしゃるかもしれませんが、ここでいう関東とは、〝関東州〟のこと。

これは日露戦争終結時の1905年に締結されたポーツマス条約によってロシアから割譲された遼東半島先端部と、東清鉄道(旅順~長春間)を運行するため1906年に作られた南満州鉄道沿線地域を指します。


 

この関東州の守備及び、南満州鉄道の警備を目的とした関東総督府の守備隊を前身とする参謀本部直属の〝関東軍〟が創設されたのが、今からちょうど100年前の今日・1919(大正8)年4月12日のことでした。

当初本部は旅順に置かれ、独立守備隊6個大隊を隷属。


更に日本内地から2年交代で派遣される1個師団によって編成された、小規模な軍でした。


しかし1928年、蒋介石率いる国民政府の北伐が(関東軍が制圧していた)満州に及ぶことを恐れた同軍高級参謀・河本大作大佐が張作霖爆殺事件を引き起こし(たとされてい)ます。

※謎多きこの事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして1931年に石原莞爾作戦課長ら主導で〝柳条湖事件〟を引き起こして張作霖の息子・張学良の勢力を満州から駆逐(満州事変)し、翌1932年3月には清国最後の(第12代)皇帝・愛新覚羅溥儀を押し立てて満州国を建国・・・と、本国(参謀本部)の意向を無視して暴走。

満州国の承認を渋った犬養毅首相が同年に起きた五・一五事件で暗殺されると、次の斎藤実内閣が満州国を承認。


これによって日本は国際社会から非難を浴び、1933年には国際連盟を脱退し孤立化を深めます。

その非難を無視するかのように、関東軍は1934年に本部を満州国の首都・新京(現・長春)に移転。

  

      長春の位置                 関東軍本部

関東軍は満州国軍と共に満州の防衛にあたりましたが、1937年の支那事変以降続々と兵力を増強。

しかし1939年に起きたノモンハン事件で大損害を被り、ソ連軍の脅威を悟った陸軍は北進論から南方進出へと方針を変更。

それでも戦力増強は続き、一時兵力も74万人以上に。

〝泣く子も黙る関東軍〟なとど言われたようですが、1941年に日ソ中立条約締結されて以降は、兵力を南方戦線に割かれ、徐々に勢力は縮小。


そして1945年8月にソ連が中立条約を破棄して攻め込むと、関東軍は後退。


その際満州各地で一般人が取り残され、様々な悲劇が起きました。

停戦後、関東軍将兵の多くはソ連の捕虜となってシベリアに抑留され、過酷な強制労働に従事させられて多数の死者を出すことに。

総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島隆三陸軍中佐ら幹部は、11年間の長きに渡り抑留されましたが、それでも帰国できただけまだ幸運だったでしょう。

関東軍の暴走を内閣が止められず、更に陸軍本部がそれを追認したことが、日本の悲劇を招いた・・・〝泣く子も黙る〟ではなく、〝日本を泣かせた〟関東軍と言えましょうか。
うー


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