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反 骨

とかく強烈な個性を放つ創業者の2代目には大人しいタイプが多く、先代が築いた企業を成長させる事例は少ないですが、この方は例外と言えましょうか?

むしろ先代の手法を踏襲するどころか、ほぼ路線変更してなおかつ規模拡大に成功したのが、


  五 島  昇   

今日は、元東急電鉄の社長・会長として東急グループを牽引した、この名経営者の命日・没後30周年にあたります。


        


五島氏は、東京急行電鉄の創業者・五島慶太氏の長男として1916(大正5)年に東京・神田で生まれました。

学習院の初・中・高等科を経て東京帝大経済学部に進学。


野球部ではキャッチャーとして活躍したものの、チームが弱すぎたことから見切りをつけて1年で退部。

その後ゴルフ部に入ると、同部を連戦連勝に導くスポーツ万能選手でした。


1940年に大学を卒業後、父親に反発して東京芝浦電気に入社したのは、同社副社長とゴルフをしたことが縁だったそうな。

しかし戦時中陸軍大尉として従軍した昇氏は、慶太氏の後を継ぐはずだった弟・進氏がソロモン諸島で戦死したことで、終戦後は東京急行電鉄に入社。

当時激化していた組合活動に巻き込まれぬよう東急横浜製作所(現・総合車両製作所)に移籍。

その翌年に日立製作所の創業者にして政友会の総裁も務めた大物・久原房之助の娘・久美子さんと結婚した彼は、その後京浜急行電鉄の取締役に。


そして東京急行電鉄に戻り、父親の意向で不承不承副社長になった昇氏は反発しゴルフ三昧の日々を送りましたが、公職追放されていた父・慶太氏が東京急行電鉄の会長に復帰した2年後の1954年に、37歳で同社々長に就任・・・まさに〝反骨のプリンス〟と言えましょうか。


しかし彼は、かつて〝強盗慶太〟と異名を取った父・慶太氏の強引な経営手法を踏襲しませんでした。


慶太氏が1959年に逝去すると、その直前まで無理な事業拡大を目指して激しい企業間紛争となっていた東洋精糖の買収交渉から即時撤退を断行。

また先代の肝入りだった傘下の自動車製造会社・東急くろがね工業を整理し日産自動車に売却、また1964年に東映をグループから分離。

その一方で、それと相前後して1956年に東急観光(現・トップツアー)、1961年に東急エージェンシーを設立。


1967年に東急百貨店本店を開店すると、その翌年には東急ホテルチェーンを設立。

そして1978年には東急ハンズ開店と、グループを再編し田園都市線開発など鉄道に関連性の高い事業への転換を目指した積極的な多角化・安定経営に乗り出しました。

更に長い年月と多額の資金を投入してハワイのリゾート開発に成功するなど、
先代をワンマンの織田信長とするなら、昇氏は豪胆な信長と我慢強い家康を足して2で割ったようなタイプだったのかも。


でもそのカリスマ性は、先代と比べても遜色はなかったようです。

※現在も使用されている東急グルーブのロゴは、1973
年に東京急行電鉄創立50周年を期して制定されたもの。


       

中央の楕円は地球を表し、内部白抜き部分はTOKYUの〝T〟を図案化したもので、3本の弧は楕円とともに東急グループの当時の4事業部門を指しているそうな。

現在東急グループは傘下に約220社を数えています。


先代のような同族ワンマン経営を目指さず、外部資本を受け入れて近代的経営に転換した五島氏は、財界活動にも積極的に関与。

永野重雄・日本商工会議所会頭から目をかけられて、1973年に副会頭に就任。


1984年に永野氏の後任として会頭に就任しました。

また政界においても中曽根康弘氏のブレーン・後援者として活躍したことも知られています。

日商会頭を辞任した1987年の12月に東京急行電鉄会長に就任した五島氏が72歳でこの世を去ったのは、1989(平成元)年3月20日のことでした。

他の大物実業家・経営者と違って自著を残しておらず、唯一といって良い日経新聞の『私の履歴書』執筆中に逝去された五島氏に関して詳しく知りたい方には、こちらをオススメします。


 『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』 

             (城山三郎・著 講談社文庫・刊)


       


サラリーマンや経営者だけでなく、普段よく東急百貨店や東急ハンズを利用する女性も、是非ご一読を!

あらためて多角化・急成長に成功した2代目経営者のご冥福をお祈り致します。
笑3


 


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