FC2ブログ
達 磨

2月26日といえば、日本人ならまず 『二・二六事件』 を思い浮かべるでしょう。


皇道派の影響を受けた一部の陸軍将校らが約1,500名の下士官兵を率いて1936(昭和11)年に起こしたクーデター未遂事件ですが、未遂とは言え4人の重要人物(と5人の警官)が殺害されました。


その中でも、我が国にとって最大の功労者と言えるのは

 高橋 是清 大勲位子爵


〝達磨さん〟という愛称で親しまれた、第20代内閣総理大臣と言えましょう。


       


1854(嘉永7)年、幕府御用絵師・川村庄右衛門と川村家の女中・きんとの間に生まれた是清は、生後すぐに仙台藩・高橋覚治の里子に出されます。


13歳の時、仙台藩の命によりアメリカに留学しますが、ホームステイ先の夫婦に騙されて奴隷契約書にサインさせられ、いくつかの家を奴隷として転々とする・・・という大変な辛酸を舐めました。

今でいえば中学生時代に渡米・奴隷を経験したわけですから、現代人には考えられない青春時代を送ったわけです。


1869年に帰国し、森有礼の世話になりながら放蕩生活を送ったり教員を務めた彼は、32歳で文部省に入省。 

 ※森有礼に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後も一時期英語教師や校長なども務めながらも、再び文部省に戻ると、すぐに出来たばかりの農商務省に異動。 


そこで海外視察を経て特許局を設立し初代局長を務め、日本の特許制度を整備。

1889年にはペルーのカラワクラ銀山経営に携わるべく、官職を持して現地入りするも、肝心の銀山が既に廃坑だったことで計画は頓挫。

彼自身も大損して自宅を手放すなど、痛い目に遭いました。

本人は田舎に引きこもる腹を固めていたようですが、彼の才能を惜しんだ西郷従道・松方正義らが口利きをして、日本銀行に入行。 

1911年には56歳で日銀総裁に就任し、日露戦争の戦時外債の公募などで手腕を発揮しました。

 政治家としては1905(明治38)年、貴族院議員に当選した後、原敬の暗殺に伴いその後継として1921年には総理大臣をも務めましたが、やはり彼の業績として最も評価されるのは、通算6度に渡り就任した大蔵大臣としての経済問題の舵取りでしょう。

(※総理就任時も、蔵相兼任でした。)


1927年の恐慌時にはモラトリアム(支払猶予)を宣言。 


また急造紙幣を大量発行して銀行窓口に積み上げ、預金者を安心させて取り付け騒ぎを沈静化。


その後も臨機応変な経済政策を実行し、世界に先駆けて日本経済を復興させた最大の功労者でありました。

戦後の1951年
に発行された50円紙幣(B号券)に彼の肖像画が選ばれたことからも、その評価の高さが分かります。

    


しかしインフレ抑制のために軍事予算を縮小したことで軍部の恨みを買い、『二・二六事件』 の際に自宅2階で暗殺されてしまったのです。 


81歳でこの世を去った彼についてもっと詳しく知りたい方には、この本をお勧めします。


 『高橋是清自伝』 (中公文庫・刊)


     
          ※昨年、新装版が出版されています。


戦前の日本経済の救世主・〝ダルマ宰相〟がもし今の時代に生きていたなら、果たしてどんな政策を取ったのか?


そんなことを想像しながら、彼の波乱万丈の人生を振り返ると面白いでしょうネ。

               人気ブログランキング

スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック