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虚 像

1932(昭和7)年1月18日、勤行中の僧侶が支那人に襲撃され1名が死亡、2名が負傷した 『上海日本人僧侶襲撃事件』 などを契機として日本と中華民国との間に緊張が高まり、同月28日~3月3日にかけて両国が交戦状態に入ったのが、〝第一次上海事変〟。


その戦闘の最中・・・今から87年前の今日・2月22日、敵陣に突入するため鉄条網を破壊する作戦が決行されました。

志願兵の中から選ばれた江下 武二 ・ 北川  丞 ・ 作江 伊之助 3名の工兵が点火した破壊筒(爆弾)を手にして敵陣に突入。

3名は爆死したものの見事に鉄条網を破壊し、突破口を開いたのです。 この勇敢な行為を当時の陸軍大臣・荒木貞夫が

 爆弾三勇士

と命名。 この2日後・2月24日の新聞各紙にはこの文字(もしくは肉弾三勇士)が大々的に掲載され、2階級特進で伍長となった彼らは、一躍国民的英雄・・・昭和時代に入って初の軍神に祭り上げられました。


    


      東京・芝の青松寺に建立された三勇士の銅像(戦後撤去)

例えば大阪朝日新聞は、

「自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ身をもつて深さ4メートルにわたる鉄条網中に投じ自己もろ共にこれを粉砕して勇壮なる爆死を遂げ歩兵の突撃路をきり開いた3名の勇士がある」

と報じ、更に27日には〝日本精神の極致〟と題する社説の中で、大和民族の特質を称えた上で、

「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露による」


と民意を扇動。 また3名とも貧しい家庭の出だったことも紹介し、25日付 『天声人語』 では

「遺族を衣食に苦しめるな」

と書いて、同社は遺族に弔慰金を贈呈。

他紙も競うように3人を称賛するイベントを催し、それに釣られるように国民はこぞって義捐金を新聞社に送ったとか。


その軍国熱をさらに高めるが如く、映画各社も競うように三勇士の作品を公開。

一番早い作品は彼らの爆死から1週間後に封切られたそうですから、粗製乱造は明らかですが・・・。
うー

更に売上を伸ばしたい新聞社は顕彰歌の歌詞を公募したり、また企業もポスターにちゃっかり三勇士を掲載するなど、便乗商法に必死。


        

国民は、まんまと軍や新聞社・企業の策略に乗せられてしまいました。

しかし、この自爆突撃・・・実際は美談とかなり違っていたようです。

現場に居合わせた兵士の証言等によると、上官が導火線を短く切断して予め導火線に点火して突入させたとか。

更に先頭の兵士が撃たれて3人とも転倒。 戻ろうとしたところそのまま突っ込めと命令されたため突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が炸裂。

つまり彼らは決死隊として覚悟の突撃をしたのではなく、上官の命令に従った末の戦死だったというのです。

この戦闘時には同様に爆死した兵士がいたそうですから、彼らだけが英雄視されるべきではなかったはず。

3人は国内の戦意高揚のために利用された・・・と言えましょう。

この話、C・イーストウッドがメガホンを取り2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』 と似ています。

       

硫黄島制圧時にたまたま(2回目に)山頂に星条旗を立てた兵士が、新聞にその写真が掲載されたためにヒーローとして祭り上げられ、軍費獲得のために広告塔として全国行脚をさせられる・・・というストーリーでした。

不幸にもその中にはストレスでアルコールに溺れる兵士が描かれていましたが、もし三勇士も生きていたら同じような・・・って、日本の場合は死んだからこそ軍神になったんでしょうけど。

でも自分たちの思いとは裏腹に散々利用されたことをあの世から眺めていた3人の胸中は、如何ばかりだったのか・・・。

当時国民の情報源といえば、新聞とNHKラジオのみ。

彼等が一斉に褒め称えれば、国民がそれを信じてしまったのは致し方ない・・・とは思いますが、新聞を含めたマスメディアの本質は昔も今も変わりません。

彼らが垂れ流す情報を鵜呑みにしないこと・・・これこそ我々国民が判断を誤らないための第一歩だ、とあらためて思う次第です。

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