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大航海

皆さんは、〝キャプテン・クック〟という名を耳にしたことがあると思います。

しかしそれがどんな人物だったか? と問われると、多くの方は答えられないかも。

実はそう呼ばれた


ジェームズ・クック
 James Cook


は、一介の水兵からイギリス海軍の勅任艦長にまで昇りつめた、有名なコロンブスやマゼランをも凌ぐ〝海の男〟と言える人物だったのですが・・・今日は、彼の命日・没後240周年にあたるのです。


      


クックは1728年にイギリス北部に位置するノースヨークシャー州マートンで8人兄妹の2番目(次男)として生まれました。

極貧の家庭だったため13歳から父親と共に働きはじめた彼は、16歳の時にステイテスという漁村にあった雑貨店に丁稚奉公を始めましたが、この店の窓の外に広がる海を眺めている内に外洋に魅せられるようになったとか。

そして雑貨店主の紹介で地元の有力な船主であったウォーカー家の所有する石炭運搬船団見習い船員として雇われることに。

子供の頃から数学が得意だった彼は、航海に必要な代数学・三角測量法・天文学などを必死に学び、
3年後に貿易船フレンドシップ号で働き始めると、荒れた海でも巧みに操船する技術と勇気を見込まれ、27歳で航海士に昇進。

それから1ヶ月も経たぬうちにイギリス海軍の水兵として入隊を志願し七年戦争に従軍。

船員としての才能を高く評価された彼は1757年に航海長に昇進すると、ソールベイ号に乗船してセントローレンス川の河口域を測量し海図を作成。


この海図が正確無比だったことから、彼の存在は英国海軍本部・英国王立協会に知られることに。

その能力を見込まれて南方大陸探索の命を受けた彼は、軍艦エンデバー号を指揮して1766年に1回目の航海に出帆。


彼は航海中に行く先々の地域を正確に測量し、複数の島や海岸線の地図をヨーロッパに初めて報告しています。

それは現在の地図と比較しても遜色がなく、また卓越した航海術とリーダーシップは船員たちからの信頼も厚く、そのおかげで南極近海など危険な海域の冒険航海にも成功する要因となりました。

世界で初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を為し遂げた彼の、累計3回に及ぶ彼の大航海ルートが、こちら。(↓)

 

彼こそは、まさしく〝海の男〟と言えましょう。

しかしその海の男が、思わぬトラプルに見舞われてしまいます。

2回目の大航海から帰国して勅任艦長に昇進した彼は、時を置かずに
レゾリューション号を指揮して第3回の航海をスタートし、1779年にハワイ島・ケアラケクア湾に投錨。

1ヶ月滞在後一旦出帆したものの船の不調で島に戻ったのですが、これが宗教上の理由から
ハワイ原住民の不興を買ってしまいます。

そして同年2月14日、原住民がクックらのカッターボートを盗む事件が発生し、その解決のため浜に降りたクック艦長は、集まった原住民と小競り合いに。

槍や石を投げてくる原住民に、船員らは銃を発砲して対抗。


身の危険を感じたクックが艦に戻ろうとしたその時、後ろから頭を棍棒で殴られ、昏倒したところを刺殺されてしまったのです。

    


それまで西欧人としては珍しく行く先々の現地人とは融和しトラブルを起こさなかった彼は、最後に死体の肉を骨から剥ぎ取られるという惨い仕打ちを受け、船員たちにはごく一部の骨が返還されただけだったとか。

そんなクック艦長の波乱万丈の生涯に興味のある方には、イギリスの歴史家フランク・マクリンが著したこちらの本をオススメします。


キャプテン・クック 世紀の大航海者』 (東洋書林・刊)


       


コロンブスやマゼラン以上に長い航海を経験し、伊能忠敬(1745-1818)より少し前に彼と同レベルの精巧な地図を制作した彼の功績は、もっと注目されるべきだと思うのですが・・・

【余  談】

彼は、34歳の時に13歳年下のエリザベスという女性と結婚し、殆ど航海に出ていながらも6人の子供を残しました。


そして妻は夫が殺されてから56年後に亡くなりましたが、その間6人の子供全てに先立たれてしまいました。

夫の遺産や海軍からの慰労金で経済的には困らず暮らしたそうですが、その結婚生活に関しては殆ど分かっていません。

果たして彼女は、海の男との結婚生活を、どう感じていたのでしょう?


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