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体 育

スポーツマンなら、この方の名を記憶に留めていただきたいものです。

 平沼 亮三 


今日は、自らもスポーツ万能選手であり、数々のスポーツ団体の会長だけでなく衆院議員・横浜市長も歴任したこの〝市民スポーツの父〟の命日・没後60周年にあたります。

       


平沼氏は1879(明治12)年、製塩業を営む平沼久兵衛の長男として、現在の横浜市西区平沼町に生まれました。

慶應幼稚舎を経て慶應義塾大学在学中は野球部の4番打者として活躍。  (後に東京六大学野球連盟会長を務めています。)

1898年に大学卒業後は家業に精を出しますが、27歳の時に結婚すると、その2年後には神奈川県議会議員に当選。

更にその2年後には横浜市議会議員、1924年には45歳で衆議院議員に当選、1932年には貴族院議員になり、政治家として活躍。

その一方で、1911年には大日本体育協会副会長に就任したのを皮切りに、1925年には全日本陸上競技連盟の初代会長、1929年には大日本排球(現・バレーボール)協会の初代会長、その翌年には日本体操協会の初代会長に次々就任。

1932年のベルリン五輪、1936年のロサンゼルス五輪では、2大会続けて日本選手団の団長も務めました。

そして戦後直後の1946年、現在〝国体〟と呼ばれ親しまれている国民体育大会の第1回大会を開催したのも、当時大日本体育協会の会長だった平沼氏でした。

おそらく、敗戦に打ちひしがれていた国民をスポーツによって立ち直らせよう・・・という気持ちが、彼を突き動かしたのでしょう。

公職追放を経て1951年に横浜市長に当選すると、在任中の1955年に第10回国民体育大会・秋季大会の開催を地元・神奈川県で迎えます。

横浜の三ッ沢公園内の陸上競技場で行われた開会式に臨席された天皇・皇后両陛下の説明役を務めた平沼市長は、やおらモーニングを脱ぎ捨ててランニング姿になると、4万人の大観衆の前で
矩火リレーの最終ランナーを務めてトラックを半周、更に56段の階段を一気に駆け上り、炬火台に点火。

    


当時76歳だった市長の健脚ぶりに、観衆は大喝采。

両陛下も惜しみない拍手を送られたとか。

この直後にスポーツ関係者として初めて文化勲章を受章した平沼市長は、翌年の歌会始で、陛下が


〝松の火を かさして走る 老人の おおしき姿 見まもりにけリ

とその見事な走りっぶりを詠まれ賜ると、
人目もはばからずにボロボロと大粒の涙を流し感激したといいます。

実業界ではキリンビール・東京會舘・帝国劇場・東京ガスなどの重役にも名を連ね、まさに政・財・スポーツ界に貢献したこの偉人が79歳で天に召されたのは、市長在職中だった1959(昭和34)年2月13日のことでした。

母校・慶應の大先輩であり、日本スポーツ界における偉大な功労者のご冥福をあらためてお祈りしたいと存じます。

※余談ですが、俳優・石坂浩二氏は平沼氏の外孫。

 そして私が大学時代に所属していた体育会・準硬式野球部の監督を務められていたのも、平沼氏のお孫さんでした。


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