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朝日将軍

今日は、先日拙ブログで取れ上げた源頼朝や義経と従兄弟にあたり、ともすると源氏一族の中では異端と言うか悲劇の武将として知られる

 源 義 仲

の命日にあたります。


        


義仲は1154(久寿元)年、河内源氏一門である源義賢の次男として生まれました。 (義賢の異母兄が、頼朝・義経の父・義朝。)


義賢は義朝と対立してその長男・義平(頼朝は三男)に討たれ、母親が遊女と伝えられる義仲は家臣によって信濃国に逃れたため、その前半生は殆ど分かっていません。

同国・木曽谷で育った故に別名・木曽義仲ともいわれる彼が歴史上に登場するのは、1180年に以仁王が全国に発した平家打倒の令旨に呼応し挙兵してから。

翌年に3千騎を集結し、横田河原の戦いで平氏の一派を破り北陸道に進むと、北陸に逃れていた以仁王の遺児・第一子を北陸宮として擁護。

1183年5月に平維盛率いる10万ともいわれる平家の大群を倶利伽羅峠の戦いで撃破。


続く篠原の戦いにも勝利し義仲には沿道の武士も参集、源氏の中では最も早く7月に入京を果たします。

後白河法皇は平氏を駆逐した源氏に感謝し、〝朝日将軍〟という称号を得た義仲を越後守に任じ京都の治安回復を期待したのですが、戦に疲弊した武士たちは逆に略奪行為に走るなど治安はむしろ悪化。


更に武家の立場でありながら北陸王の即位を執拗に主張し皇位継承問題に介入したことで嫌われ、法皇は彼に平家打倒のため西国に向かわれます。


       

                  後白河法皇


京を出て平家相手に義仲が苦戦している間に、頼朝は平家横領の神社仏寺領の返還など朝廷を喜ばせる上申を行い、彼に東海・東山両道諸国の支配権を与えます。

それを知った義仲は激怒し猛烈な抗議を行いますが、既に頼朝側に傾いた法皇は聴く耳を持たず。


追いつめられた義仲は、11月に法住寺殿を襲撃し後白河法皇を幽閉し、天台宗の高僧ら100名以上を殺害し力を誇示しようとしますが、逆に人望を失い多くの武士が離脱。


1184(寿永3)年)1月20日、頼朝が派遣した彼の弟・範頼や義経の軍と 『宇治川の合戦』 で:激突・・・と言いたいところですが、連合軍2万5千騎に対し義仲軍は僅か400騎では勝負にならず、義仲は敢え無く敗走。

そして同日、追われた彼は現在の滋賀県大津市で最期は顔面に矢を浴び、30歳の若さでこの世を去りました。

人質として頼朝に差し出され彼の長女・大姫の婿となっていた義仲の嫡男・義高も逃走を図ったことで同年4月に12歳で殺されてしまいました。

さて、義仲を語る時に必ず登場するのが、巴御前


        


彼の平家討伐に従軍し、〝一人当千〟すなわち彼女一人で千人分の働きをすると言われた大力・強弓の女武者。

薙刀に〝巴型〟という名も残した彼女は義仲最後の敗走に付き従うも、義仲に諭されて逃げ延び、越後国で尼僧となった・・・とも伝えられます。


まさに戦国時代に咲いた一輪のバラというか孤高のアマゾネス(失礼!)みたいな女性ですが、実は彼女の名が登場するのは 『平家物語』・『源平盛衰記』 のみという、謎の存在。

もしかしたら、源平物語に・・・というか、武骨者と言われた義仲の短い人生に色を添えるために書き加えられた架空の人物かもしれません。

真偽のほどは定かではありませんが、義仲としては満更でもないでしょうネ。

もし実在の女性だとしたら・・・その生まれ変わりは、ウチの女王様かも。
あせあせ


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