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大番狂わせ

1月15日というと、昭和オヤジの私としてはどうしても 『成人の日』 というイメージがあります。

が、その祝日が公布・施行される9年前・・・今からちょうど80年前の今日、日本中を揺るがす〝大事件〟が起きました。 

それは大相撲一月場所の4日目、


 横綱・双葉山

の連勝が69でストップしたことでした。


       


双葉山関(1912-1968)は、5歳の時に吹き矢が当たったせいで右目が半失明状態というハンデがありながら、相撲界入り。

1935年に蓄膿症の手術をしてから体重が増え、強さが増しました。

そして翌年の一月場所6日目に横綱・玉錦に敗れたものの、翌7日目に壇ノ浦に勝ったところから連勝がスタート。

この場所9勝2敗(※当時は1場所11日)で関脇に昇進(優勝は前述の玉錦)した双葉山関は、翌五月場所では玉錦を破って全勝優勝し、大関に昇進。

更に翌1937年一月場所では玉錦が場所中に上腕骨を骨折して休場したため直接対決が無く、またしても全勝優勝。

そして双葉山人気で11日から13日に伸びた翌5月場所も全勝優勝した双葉山関は横綱に推挙され、玉錦・武蔵川・男女ノ川と共に4横綱の一角を占めます。

ライバル横綱が3人もいると連勝記録続伸は厳しい状況ですが、幸運だった(と言っては失礼ですが)のは最強のライバル・玉錦が1938年12月に腹膜炎を悪化させて現役のまま突然亡くなってしまったこと。

また武蔵川が休場しがちだったことで、直接対決が少なくなったことが挙げられます。

1938年一月場所では9日目に際どい取り直しがありましたが、それも凌いで全勝優勝。

翌場所も全勝優勝を果たして連勝を66に伸ばすと、双葉山の連勝はどこまで続くのか、また彼を倒す力士は誰なのか? が人々の大きな関心事に。


そして迎えた1939(昭和14)年の一月場所・・・それまで幸運に恵まれていた双葉山の運気が落ち始めます。

前年に満州巡業した際にアメーバ赤痢に感染して体重が激減した双葉山関は当初休場するつもりでした。

しかし玉錦が亡くなり武蔵川が休場、そして前の場所で男女ノ川が負け越したことで、実質一人横綱の立場となった彼は、責任感から出場を強行。

幸い3日目まで連勝して記録を69連勝と伸ばし、1月15日の4日目に対戦したのが、当時前頭4枚目の安藝ノ海(1914-1979)でした。


横綱の右目が弱いことを知った上で右に回り込んだ安藝ノ海は、双葉山関のすくい投げをかわして外掛けをかけると双葉山関は一瞬早く土俵に落ち、この瞬間70連勝はならず。

 ※この一番の映像が残っています。(↓)



取組後、国技館内は座布団だけでなく酒瓶や煙草盆、更には暖房用の火鉢(!)まで乱れ飛んだそうで、ラジオ中継していた和田アナは「双葉、敗れる!」と連呼、「70連勝ならず、まさに70、古来やはり稀なり!」と実況したそうな。

その後敗れた双葉山が、師と仰ぐ安岡正篤氏に「
イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した逸話は有名。

また彼は取組後以前から予定していた大分県人会主催の激励会に出席し、いつもと変わらぬ態度で出席者を感銘させたといわれています。


一方連勝を止めた安藝ノ海は、国技館を出たところで興奮した群衆にもみくちゃにされ着物はボロボロ、普段なら歩いて数分の部屋に帰るまでに1時間以上を要したとか。

そして師匠・出羽海親方に
「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭された安藝ノ海は、「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」 とその後も精進を重ねて1942年5月場所で見事横綱に昇進しました。


       

それ以前の関脇時代だった1940年5月場所に生涯で1回だけの優勝を飾りましたが、この場所中に双葉山関が引退した事にも、2人の因縁を感じます。

〝世紀の大一番〟は、相撲の神様が仕組んだのかもしれません。

【余 談】


この一番について大相撲史上初めて号外が出されたそうですが、残念ながら現存が確認されていないとのこと。

祖父・曾祖父が相撲ファンだった方は、蔵や押し入れの中を捜索してみてください。

もしこの号外が出てくれば、なんでも鑑定団出演は間違いなし!?
あせあせ


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