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忠誠一途

今日は、クイズから始めましょう。

徳川家康の孫にあたり、第3代将軍・家光の異母弟で、第4代将軍・家綱を支えた人物は誰でしょう?

パッと答えられた方は、かなりの日本史通だと言えましょうか。 

正解は、


 保科 正之

名前は聞き覚えのある方が多いと思いますが、今日はこの江戸時代・・・いや、日本史上屈指といわれるこの名君の命日にあたります。


       
                 狩野探幽・筆


正之は1611(慶長11)年に第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれました。

母親のお静(後の浄光院)は秀忠が愛した大奥の女性でしたが、正室・お江与(
崇源院)の方の嫉妬を恐れ、出生は極秘扱いに。

密かに武田信玄の次女・見性院の手で育てられた彼は、遂に実父・秀忠と会うことはないまま7歳の時に旧武田家臣で信濃高遠藩々主・保科正光の養子に。

正光は将軍の子である正之を自らの後継者として丁重に養育し、正之もその期待に応えるかのように論語の素読など勉学と武芸に励み、同時に領内で庶民の生活を学んだとか。

そして21歳だった1631(寛永8)年、正光逝去に伴い3万石の高遠藩主となり、肥後守に叙任。

それ以前の1623年に第3代将軍となった後この異母弟の存在を知った家光は、彼の才能を高く評価。

血縁者としてではなく、あくまで家臣として使える正之を重用し、武家諸法度改定など幕政に参画させました。

1636年には出羽山形藩20万石を拝領して高遠藩の藩士を引き連れて山形入りし善政を施すと、1643年には御三家の一角・水戸藩と同等以上となる23万石(+預り領5万石)の陸奥会津藩主に。

そして1651年、死期を悟った家光に呼ばれ、彼の長男にして第4代将軍となる家綱の後見・補佐役を頼まれます。

すると家綱が将軍についた直後に政府転覆を図って起きた慶安事件(由井正雪の乱)を未然に防いだ正之は、以後20年間にわたって
会津藩政を重臣たちに任せ、幕政に専念し家綱を助けて家光への忠誠を尽くしたのです。

※藩政に関しては重要な判断は江戸から指示を出したそうですが、その中のひとつに 『会津家訓十五箇条』 があります。その第一条では、


「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」

と定め、徳川家への忠誠を貫くよう戒めています。

以後同藩の藩主・家臣はそれを忠実に守ったのですが、それが裏目に出たのは後の幕末・明治維新の頃・・・会津藩が最後まで幕府軍の一員として新政府軍と戦い白虎隊などの悲劇を招いたことは、歴史の皮肉と言えましょうか。


正之はそれまでの武力に頼って抵抗勢力を制圧した幕政を文治政治に切り替え、平穏な世の中が長く続くよう様々な政策を施しました。

その彼の能力の高さが発揮されたのは、1657年に江戸で 『明暦の大火』 (振袖火事)が起きた時。

 ※明暦の大火に関する過去記事は、こちら。(↓)



天守閣を含む江戸城の外堀以内のほぼ全域、多数の大名屋敷や市街地の大半が焼失し、死者10万人近くを出したという未曽有の大火災に見舞われた際、多くの幕閣が茫然自失。

そんな中で正之は、自らの後継者として期待していた次男・正頼が病死するという不幸を乗り越え、道路幅の拡張など様々な再建計画を打ち出すと同時に、市中の再建を優先して江戸城天守閣の再建を後回しにするなど、庶民の生活に寄り添う姿勢を崩しませんでした。


それがために、遂に天守閣は現在に至るまで再建されることはなかったのですが・・・。

江戸のライフライン・玉川上水を引くなど善政を施し続けた正之は、その過労が祟ってか50歳過ぎから結核を患い、晩年には失明してしまったそうな。


そして1669年に隠居した彼が61歳でこの世を去ったのは、1672(寛文12)年12月18日のことでした。

その功績により、幕府から松平姓を名乗るよう勧められたにもかかわらず、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯を保科姓で通したという律儀な正之に関して興味のある方には、この本のご一読をオススメします。


 『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主
                      (佐藤彰彦・著 中公新書・刊)


       

これを読むと、「彼が今、永田町にいてくれれば・・・」 とため息が出る方が多いかも。

そんな政治家の登場を願いつつ、名君の冥福を祈りたいと思います。


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