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守 城

今日は、久しぶりに〝学校では教えない〟優れた日本軍人のご紹介です。

皆さんは、学校で 『義和団の乱』 を習った記憶があると思います。

それまで西欧列強による侵略を許し、日清戦争に敗れて以降さらに疲弊した清国内では、人々の不満が高まっていました。

そしてアロー号事件の際に締結された天津条約(1858年)でキリスト教の布教が認められたことにより、多くの宣教師が清国入り。


地元の風習を無視した強引な布教を行ったため、住民との衝突(仇教事件)が各地で起きるように。

そのキリスト教に対する反発と、清朝に対する不満が重なってできた抵抗団体(拳法結社)が、〝義和団〟でした。

山東省で発生した義和団の活動はやがて各地に広がり、団員の数は急速に増加。


彼らは外国人やキリスト教信者の同胞や彼らが経営する商店などを襲撃しながら北京へと進行。

そして本来その暴動を抑えるべき清朝(西太后)が、彼らを支持。


義和団と共に清国軍が北京を包囲した翌日・1900年6月21日に、英・米・露・仏・独・伊・オーストリア=ハンガリー及び日本の8ヶ国に宣戦布告したのです。


常識的に考えれば、各国がすぐに兵力を増強して一気に義和団・清国軍を攻撃するところですが、この時は各国とも他に戦争を抱えているなどの事情があり、十分な派兵が出来たのは露と日本のみ。

紫禁城東南の東交民巷というエリアにあった公使館区域には外国人925名・支那クリスチャン3,000名が逃げ込んでいましたが、その護衛兵は僅か500人足らず。

その圧倒的不利な状況で籠城を指揮し、連合軍が北京を奪還・制圧した8月14日まで持ちこたえさせたのが、


 柴 五郎 陸軍中佐

でした。 今日は、後に諸外国から称賛されることになるこの日本軍人の命日にあたります。


        


1860(万延元)年に会津藩士・柴佐多蔵の五男 (兄の四男・柴四朗氏は、我が国初の政治小説 『佳人之奇遇』 16巻の著者) として生まれた彼は、会津戦争によって祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃する不幸に見舞われ、残された一家は一旦江戸に俘虜として護送された後、現在の青森県むつ市に移封。

西郷・大久保ら薩摩藩士には強烈な恨みを抱いていたそうですが、青森県庁の給仕を務めるなど苦労を重ねた末、1873年に見事陸軍幼年学校に合格。

1877年に陸軍士官学校へ進学(同期に秋山好古ら)、1884年7月に陸軍中尉に進級すると、同年10月に清国・北京に駐在。

1894年にイギリス公使館駐在武官を5ヶ月務めた後、日清戦争へ。


その後再びイギリス公使館附に復帰し、以後米西戦争視察で渡米するなどした後、1899年10月中佐に昇進すると、1900年3月に清公使館附に。

その僅か2ヶ月後、義和団の乱に遭遇したのです。


清国駐在経験が長く北京市内の地理や情勢に精通し、また英語・仏語・中国語が堪能だった柴中佐は、欧米諸国の顔を立てながらうまく陣頭指揮を執り、籠城作戦を立案・実行。


 

               連合軍(前から2列目・左から6人目が柴中佐)


現場では当初それほど注目されなかったものの、やがてその冷静な判断と統率力によって多国軍を取りまとめ、多くの人命を救った功績を称えられた柴中佐は、イギリスのヴィクトリア女王をはじめ関係各国政府から勲章を授与されました。

ロンドン・タイムスは社説で


「籠城中の外国人の中で日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。 日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた。」


と絶賛。  〝リュウトナン・コロネル・シバ(Liutenant Colonel Shiba =柴中佐)〟の名と日本兵の優秀さを世界中に知らしめました。 

時に柴中佐、40歳。


彼の活躍は (本人にその意識はなかったものの) 日本人に対する信頼を高め、日英同盟締結の端緒に。

そして、それが結果的に日露戦争で日本が勝利を収める大きな要因になりました。

大佐に昇進した彼は、その日露戦争に砲兵連隊を率いて従軍し、大怪我を負いながらも奉天会戦を生き抜き、1919年8月には陸軍大将に昇格。

しかし親中派だったからか、あるいは会津藩の出身だったからなのか・・・明治天皇に2度も拝謁し直接金鵄勲章を親授された程の軍功を立てたにも関わらず、陸軍の要職に就けぬまま1930年に退役。


                 


そして日米開戦直後から 「この戦争は負ける」 と看破していた柴氏は、1945年に終戦を迎えると身辺整理をした後9月15日に割腹で自決を図るも、老齢のため失敗。

しかしその怪我が元となり、同年12月13日に85歳で病死しました。

教科書には出てこない柴中佐の前半生・・・というより青年期について詳しく知りたい方には、この書籍のご一読をお勧めします。


 『ある明治人の記録   会津人柴五郎の遺書
                    (石光真人・著 中公新書・刊)


       


柴氏が書き残した自伝(的文書)に著者がご本人にインタビューした内容を加筆したもの。

旧文体ながら、実兄と同じく文才があったであろう柴氏の〝遺書〟からは、敗残・俘虜・脱走・下僕・流浪など苦労の末に陸軍幼年学校に入り士官学校に進学するまでの壮絶な少年・青年期が読み取れます。

会津戦争の戦火により
丸焼けになった実家で、自刃した母・姉・妹の遺骨を拾った(今で言えば小学校3,4年だった)五郎少年の心中は、如何ばかりだったのか・・・。

また籠城事件を含め、柴中佐の生涯を描いた評伝としては、こちらをオススメします。

 『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯

                 (村上兵衛・著 光人社NF文庫・刊) 


       

これを読むと、柴中佐だけでなく陸軍兵士を含む日本人が、いかに立派な態度で戦い、各国から一目置かれる存在だったかが分かります。


国際的に称賛された気骨ある会津藩士・・・いや日本軍人が、如何にして形作られたのかを、この2冊が教えてくれることでしょう。

余談ですが、1963年に公開されたアメリカ映画 『北京の55日』 がこの籠城の模様を描いており、若き日の伊丹十三さんが柴中佐役を演じています。

        


機会があれば、ご鑑賞ください。
但し、柴中佐は主役ではありませんが・・・。

どうか皆様には、日本を救った柴五郎中佐の名を子や孫に伝えていただきたく。扇子

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