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速 攻

ここ10年以上、外人力士ばかりが土俵上を席巻していることに嫌気して全く興味が無くなりましたが、昔は大相撲ファンだった私。

テレビにかじりついて中継を観始めたのが、ちょうど〝柏鵬時代〟真っ盛りの頃でした。

今日は、その一時代を大鵬関と共に支えた、第47代横綱


 柏戸 剛 

の命日・二十三回忌に当たります。


柏戸(本名:富樫 剛)関は1938(昭和13)年に現在の山形県鶴岡市で果樹園などを営む豪農の次男として生まれました。

中学校入学時に既に180cmあったという立派な体躯でスポーツ万能だった富樫少年は学業も優秀で、県内屈指の進学校・県立鶴岡南高等学校に入学。

しかし相撲の東田川郡大会で活躍したことを伊勢ノ海親方が聞きつけて、熱心にスカウト。

当初は果樹園の跡取りにと考えていた両親は大反対しましたが、親方から 「東京見物に行こう」 と誘い;出され、部屋に連れて行かれて幕下力士にいい勝負をしたことで入門を決意。

(最初は手加減したりお客様扱いして入門させる・・・という手口は大相撲の常套手段でしたから、果たしてそれが実力通りだったかは疑問ですが。)あせあせ

1954年、蔵前国技館が落成した最初の場所で初土俵を踏むと、将来の横綱候補として親方からかけられた期待通りにトントン拍子で出世。

1958(昭和33)年9月場所で19歳というハイスピード新入幕を果たすと、半年後に伊勢ノ海部屋伝統の四股名である〝柏戸〟を襲名。

そして1961年9月場所後に歴代柏戸が果たせなかった横綱に大鵬関と同時に昇進を果たしました。

        


以降1969(昭和44)年7月場所で、あと1勝で幕内通算600勝というところで引退するまで、柏鵬時代といわれた大相撲人気を支えました。

とは言え、通算優勝回数は大鵬関32回に対して柏戸関は僅か5回。

通算対戦成績も大鵬関21勝に対して柏戸関16勝・・・特に横綱になって以降は9勝18敗のダブルスコアとかなり差がついています。

しかしそれは大鵬関が年下かつ〝昭和の大横綱〟と言われた名力士であったためであり、歴代横綱の中でも確実に強かったはず。

ともすると〝巨人・大鵬・卵焼き〟と言われるほどの人気を誇った大鵬関の引き立て役のような見方をされ、〝大洋・柏戸・水割り〟なんてシブい言われ方をしましたが、取り口自体は鋭い立ち合いから相手を一気に土俵際に追い込みそのまま押し出すという、玄人受けする豪快な速攻相撲。

ただそれがために格下力士にあっさり負けて金星を献上する脆さもあり、また土俵下に激しく落下してしまうため、ケガに泣かされ再三休場を余儀なくされたことも、大鵬関との差がついた要因ともいえましょう。

引退後は独立して鏡山部屋を創立し、多賀竜関などを育成。

個人的には、審判部長として土俵下でギョロ目を光らせていた姿が印象的でしたが・・・腎臓病が悪化して人工透析を余儀なくされ、1996(平成8)年12月8日に58歳でこの世を去りました。


一見人を寄せ付けない迫力の持ち主でしたが、意外にも(失礼!)涙もろい人情家で、リハビリのため滞在した栃木県の塩原温泉郷では地元中学生とバレーボールなどで交流するなど、気さくで人から好かれる性格だったとか。

ちなみにその塩原中学では、今でも柏戸関から寄贈された賜杯を模したカップが運動会の応援合戦優勝チームに授与されているそうな。

昭和の大横綱・大鵬関の終生のライバルとして、少年相撲ファンだった私の胸をときめかせてくれた柏戸関のご冥福を、当時の取組映像を観つつお祈り致します。笑3




嗚呼、昭和時代の大相撲は良かったなァ・・・。

えっ、どうして? その理由は敢えて申しますまい。うー

 

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