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会津中将

今日は、明治維新前後の日本史を語る上では欠かせぬ武将にして、最後の会津藩主であった


           かたもり

松平 容保


の命日・没後125周年にあたります。


容保は1836(天保6)年に第10代美濃高須藩主・松平義建の六男として江戸藩邸で生まれました。

彼の祖先は水戸藩主・徳川治保で、いわゆる徳川直系。

10歳の時に第8代・会津藩主だった叔父・松平容敬(高須松平家出身)の養子となり、厳しい会津藩の教育(徳川家への絶対的恭順)を受けましたが、これが後々彼の行動に大きく影響を及ぼすことに。


15歳の時に会津へ赴き、同地で修養を重ねた容保は、義父・容敬が亡くなったため、16歳で家督を継ぎ第9代・会津藩主に。

そして23歳だった1860年に桜田門外の変が起きましたが、水戸徳川家の血を受け継ぐ彼は水戸討伐に反対し、幕府と水戸藩の調停に奔走。

この働きを評価された彼は、26歳で京都守護職に抜擢されます。


        


上の写真はその頃のものですが、ご覧の通りの目鼻立ちがキリッとした二枚目。

〝会津中将〟と呼ばれた彼が颯爽と京都の街を馬に乗って闊歩すれば、それを一目見ようと女性が通りに押しかけ、宮中に参内すれば女官たちがソワソワしたとか。

まさに〝幕末のジャニーズ〟って感じだったんでしょうネ。
あせあせ


政情不安の京都市内を守り、また幕府に建議書を提出して開港を遅らせるなどバランスを取ることに腐心した容保を、考明天皇は高く評価。

しかし1863年に 『八月十八日の政変』、翌年には彼,が京都警護を依頼
した新選組が 『池田屋事件』 を起こし、その翌月には長州藩士が報復行動(蛤御門の変)に出て返り討ちに遭うなど、京都市内はますます不穏に。


病身をおして守護職を続けた容保は、大政奉還後も第15代将軍・慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際も江戸に逃げ帰った慶喜に追従。


徳川家に絶対服従を誓っていた彼は、慶喜が恭順の意を示し江戸城が開城された後も新政府軍と徹底抗戦。

それが故に、会津戦争で街は火の海となり、白虎隊をはじめ多くの武士や婦女子を含む家族が自刃する悲劇を生み出すことに・・・。

故に降伏して容保が東京に護送された際には、見送る領民は殆どいなかったとか。

その後蟄居を経て1880年に日光東照宮の宮司を任じられた容保は、1888年に起きた磐梯山の噴火・地震の被害を受けた会津を再び訪れるなどした後、1893(明治26)年12月5日、肺炎により57歳で東京・小石川の自邸で逝去しました。


        
                  
晩年の容保


 長年容保に仕えた小姓によれば、彼は 「将軍・家茂に対する感謝の気持ちを終生持ち続け、感情の起伏を表に出さず、切迫した場面でも狼狽える様子を見せなかった」 とか。

そして一度決めたら、迷わずにやり通す頑固な一面もあったそうな。

残念ながら、それが維新の際に悪い方向に出てしまったのかも・・・もし彼にもう少し柔軟な思考が出来ていたら、歴史は多少なりとも変わっていたかもしれません。

※余談ですが、現在も引き継がれている徳川宗家は、容保の男系子孫だそうです。


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