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三段跳

今日は、クイズからスタートです。

英語では昔はホップ・ステップ・アンド・ジャンプ、現在はトリプルジャンプと言われている陸上競技の種目・・・これを日本語で今日のタイトル『三段跳』と訳したのは、誰?


スポーツ、特に陸上競技ファンならよくご存じの方なのですが・・・正解はこの三段跳で日本人として初のオリンピック金メダリストとなった

 織田 幹雄 選手

今日は、この往年の名選手の命日・没後20周年にあたります。

       

織田選手は1905(明治38)年に、現在の広島県安芸郡海田町で生まれました。

尋常小学校時代に安芸郡の体育大会・200m走で優勝し、早くもその片鱗を見せた彼は、人一倍の負けず嫌いだったとか。

しかし進学した広島県立広島中学校(現・県立広島国泰寺高等学校)には陸上競技部がなくサッカーをしていたそうですが、3年生の時に転機が。


アントワープ五輪に十種競技で出場した野口源三郎選手が広島で開いた講習会に推薦されて参加し、野口選手に

「君は小さいのによく跳ぶな。

練習すれば、きっと日本の代表になれるぞ。」

と褒められたことが、陸上競技に転向するキッカケになったそうな。


その翌年、中学校に徒歩部(陸上部)が出来たため移籍したものの、サッカー部にグラウンドを占拠されていたため、隅っこで独学で練習を積んだ彼の才能を見出したのは、またしても十種競技の
佐々木等選手。

彼が広島に立ち寄った際に織田選手を指導したところ、なんとその佐々木選手の全ての記録を上回り、走高跳では日本記録を軽く超えたことに驚き、織田選手の存在を雑誌 『陸上界』に紹介したことで、その存在を知られることに。

そして中学5年だった1922年に全国中等学校陸上競技大会に出場して、走高跳と走幅跳で優勝。


翌月開催された極東選手権大会・予選会の走高跳・走幅跳で日本新記録を、三段跳ではあと7cmに迫る好記録を叩き出した織田選手は、翌年開催された本大会に出場して走幅跳と三段跳で見事優勝。

新聞に〝日本一のジャンパー〟〝跳躍の鬼才〟などと書き立てられ、注目度は更にアップ。

1924年のバリ五輪に出場し、走高跳では予選落ちしたものの三段跳では日本人として初めて入賞(6位)を果たすと、翌年第一早稲田高等学院に奨学金を得て進学し、早稲田大学競争部で練習を重ねます。

そして1928年に早稲田大学に進学した彼は、同年に開催されたアムステルダム五輪に出場し、走高跳では8位に終わったものの、三段跳では15m21の記録で見事日本人初の金メダルを獲得!


       


※日本人初の金メダル獲得に敬意を表し、旧国立競技場フィールド内に立てられたポールの長さは15m21でした。
これは新設される国立競技場にも移設されることになっています。
また彼の出身地・広島にある広域公園陸上競技場にあるポールも同サイズ。

しかし大会本部では、まさか東洋の島国から優勝者が出るとは考えておらず、君が代は途中からの演奏となり、掲揚すべき日章旗を用意していませんでした。

そこで同大会で同じ日に日本人女性初の銀メダルを獲得した人見絹枝選手から

「もし織田さんが優勝したらこれで体をくるんであげなさい」

と託されていた南部忠平選手が、それを表彰台に持って行って掲揚させたのですが、他の国旗の4倍も大きかったため一際目立った・・・というエピソードを残しています。


       

大学では後輩で4年後に同じ三段跳で金メダルを獲得したその南部選手と切磋琢磨しながら育成。


 ※南部選手に関する過去記事は、こちら。(↓)



1931年に大学を卒業し朝日新聞社に入社後もトップ・アスリートとして活躍した織田選手は同年に世界記録も更新しましたが、翌年に台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが選手寿命を縮める結果に。

1932年のロサンゼルス五輪では旗手を務めたものの、記録はふるわず。(しかし前述のライバル・南部選手が見事金メダルを獲得してくれました。)


同大会後に結婚し第一線から退いた織田選手は、その後指導者としての道を歩み始めます。

全国を指導行脚した彼は、終戦後の1945年12月に発足した日本陸上競技連盟(JAAF)の強化担当ヘッドコーチに就任。

更に1948年には日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任し、翌年〝フジヤマのトビウオ〟古橋広之進選手と共に渡米。

欧米のスポーツ事情・情報を入手し、その後も日本国内のスポーツ環境改善に貢献。


1959年にJAAF強化委員長に就任、東京五輪までの選手強化を任されると、彼は中学から実業団までの一貫したコーチングを提唱すると同時に、海外から優秀な指導者の招聘も実施し、日本陸上界のレベルアップに大きく寄与。

東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した円谷選手をトラック競技から転向させたのも、彼でした。

陸上競技総監督を務めた同大会開催の翌年に早稲田大学教授に就任した彼の元には、その後も国内・海外問わず指導を仰ぐ選手が多数やってきたそうですから、その名声は世界中に鳴り響いていたのでしょう。

1980年に設立された日本マスターズ陸上競技連合の初代会長にも就任し、1988年には陸上競技界から初の文化功労者に。

1989年から1998(平成10)年12月2日に93歳で大往生を遂げるまでJAAFの名誉会長の座にあった織田氏は、まさに生涯を陸上競技に捧げた方でした。

その織田氏の自伝が、こちら。


『織田幹雄 わが陸上人生 (日本図書センター・刊)


       


たとえ陸上競技をされない方にも、

「私は決して天才的競技者ではなかった。

私を強くしたのは、人一倍の努力であった。」


と語る織田氏の生涯に触れて欲しいもの。

今宵は久しぶりに同書のページをめくりつつ、〝日本陸上競技の父〟のご冥福を祈りたいと思います。
笑3


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