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阿 呆

喜劇役者は数あれど、阿呆役をやらせたら日本一・・・といえば、間違いなくこの方でしょう。


 藤山 寛美 さん

今日は、この関西の産んだ天才芸人の命日・没後25周年にあたります。


寛美 (本名:稲垣 完治) さんは、大恐慌のあった1929年に大阪市西区に生まれました。

父親が関西新派の俳優、母親がお茶屋の女将という環境で育った寛美さん・・・4歳の時に父親を病気で亡くすと、父親の名乗った藤山を継承して名を寛美とし、僅か4歳で初舞台に立ったという、まさに生粋の役者。


13歳の時に2代目・渋谷天外に誘われて松竹家庭劇に入団したものの、空襲で大阪の芝居小屋が全焼したため、1945(昭和20)年3月に行軍慰問隊の一員として満州に渡った彼は、終戦を奉天で迎えたため一時期ソ連軍に抑留されます。

解放後もハルピンで靴磨きやキャバレーのボーイなどをして食いつなぎ、ようやく1947年秋に帰国。


劇団をいくつか転々とした後、師匠・渋谷天外らと共に松竹新喜劇のの結成に参画。

1951年、『桂春團治』での酒屋の丁稚役で注目され、一躍人気者に・・・彼の十八番・阿呆役のスタートとなりました。


         


そして渋谷天外が病気で倒れた後、実質的に座長となった寛美さんは松竹新喜劇を背負って立つのですが・・・役者としても破格でしたが、遊びも超ド級でした。


「遊ばん芸人は、花が無うなる」 という母親の言葉を忠実・・・いや、それ以上に守った彼は、夜な夜な豪遊を繰り返し、ボーイにチップとして自動車をあげたなんていう伝説をも残しています。


更に後輩の作った借金まで肩代わりしたそうですが、そんな生活がいつまでも出来るわけはなく、彼は1966年当時1億8千万(現在の6億円近く)の借金を作って自己破産。


松竹および松竹芸能から専属契約を解除させてしまいます。

仕方なく東映映画に俳優として出演し生活を凌いでいましたが、世間はこの天才役者を放ってはおきませんでした。

彼を手放した後の松竹新喜劇は、人気が急落。

仕方なく松竹は彼の負債を肩代わりして、舞台に復帰させます。

舞台に復帰した寛美さんは、まさに水を得た魚。

実力派の脇役を従え、観客を笑いの渦に巻き込みました。

私が彼を初めて観たのは中学生時代。

ちょうど松竹新喜劇の人気が頂点だった頃のテレビ中継で、それこそ大笑いの連続でしたが、同時にその何とも言えぬ絶妙の間の取り方に感心したことを憶えています。

公演の際には何本かの出し物の中から観客から最もリクエイトが多いものを即座に演じたという話を聞いてビックリ。

更に彼が全ての出し物の(本人はもちろん出演者全員の)台詞を記憶しており、その上にアドリブを加えたというのですから、ちょっと信じられませんでした。


しかし休みなしで連日舞台に立ち続け、大阪万博も見物しなかったといわれた寛美さん・・・走り続けた結果、身体が悲鳴を上げてしまいます。

平成時代に入ってすぐの1990年3月、不調を訴えて検査入院したところ肝硬変の診断が。

本人は舞台復帰の執念を燃やしていたそうですが、その願いは叶うことはなく・・・同年5月21日に役者としてはこれからが円熟期という60歳でこの世を去ってしまいました。

立川談志師匠が、「通天閣が無くなったようだ」とその死を惜しんだように、演劇界は大きな柱を失ったのです。

一部には後継者を育成できなかったという指摘もありますが、寛美さんとそっくり(失礼?)な三女・藤山直美さんがしっかりお父さんの芸風を受け継いでいるのが救いです。


それでは在りし日の名演技を鑑賞しつつ、稀代の喜劇役者のご冥福をお祈り致しましょう。(↓)

   < https://www.youtube.com/watch?v=xK1-13eVfbs >

アドリブでお相手の女優が苦笑いする場面が懐かしいですが・・・何となく吉本新喜劇と同じ臭いがしませんか?笑2

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