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対 立

明治維新以降、日本は一致団結して富国強兵に邁進した・・・と言いたいところですが、実際には明治政府内で様々な権力闘争がありました。

その中でも最も大きい対立と言えるのが、今から145年前の今日起きた


 明治六年政変

と呼ばれる、政府首脳である参議の半分と軍人・官僚約600人が一斉に辞職するという一大事件でした。

この政変が起きた原因・・・それは、〝征韓論〟にありました。


当時李氏朝鮮の政権を掌握した興宣大院君が攘夷を国是とし、「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」 と、日本との断交を目論んでいました。

この強硬姿勢を知った明治政府内には、日本人の安全を確保するため派兵し武力を以て開国させんという主張が。

その征韓論の推進派だったのが、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎らでした。


       

※教科書等では西郷がその旗振り役として記述されていますが、実際に派兵を主張したのは板垣退助であり、西郷は決して武闘派ではなく、まずは彼自身が話し合いをするため使節として朝鮮に渡ろうとした、という説があります。

そしてこの征韓論が政府を2分する対立になったのは、たまたまこの征韓論反対派だった岩倉具視・大久保利通・伊藤博文・木戸孝允らが、各国の親善と不平等条約是正の地ならしを目的とした〝岩倉使節団〟のメンバーとして1871年12月~73年9月まで欧米を巡っており、彼らの留守中に推進派が台頭したこと。


つまり、留守中にやってしまおう・・・という魂胆。


 

 岩倉使節団 左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通


しかし大久保利通は、西郷が訪韓すれば殺害され、それを契機として戦争が勃発することを恐れて猛然と反対。

更に〝使節団派遣中に重大な政治決定・改革は行わない〟という盟約があり、明治天皇もそれを基に 「使節団が帰国してから再度上奏するように」 と、一度は決まった西郷派遣案を脚下。


岩倉使節団が帰国して10月14・15日に開かれた閣議において採決したところ、そこで西郷が 「征韓論が通らなければ辞任する」 と言明したことで、大量の薩摩出身官僚・軍人が政府から抜けることを恐れたメンバーは、大久保を除いて派遣に賛成。

しかし怒った大久保が辞表を提出し、岩倉もこれに同調。

両派の板挟みになった三条議長は、過度のストレスで同月17日に倒れて意識不明に。


これによって太政大臣代理に就任した岩倉は、派遣上奏を迫る推進派に、「派遣決定と延期双方の意見を上奏する」と主張。

これを不満とした西郷が辞表を提出し、
1873(明治6)年10月23日、最終的に明治天皇が派遣の無期延期を決定したことで、更に推進派の板垣・後藤らが辞表を提出。


それらの辞表が10月25日に受理されたことで、多くの官僚・軍人が同調したのです。

この政府分裂が、翌年2月の西南戦争へと発展したわけですが、一方
ではかつて江藤新平に失脚させられた山縣有朋・井上馨が公職復帰を果たし、結果的に士族反乱や自由民権運動にも繋がりました。

同政変に関して詳しく知りたい方には、少し古いですがこちらの良書をお勧めします。


 『明治六年政変』 (毛利 敏彦・著 中公新書・刊)


       

※同書は 「西郷は決して征韓論急進派ではなかった」 とする立場で書かれています。


しかしこれで朝鮮との縁が切れたわけではなく、1875年9月に起きた『江華島事件』 を発端として日朝修好条約を締結。

その後、1885年3月に、(福沢諭吉が執筆したと言われる)『脱亜
論』が新聞の社説として掲載されました。

※『脱亜論』に関する過去記事は、こちら。(↓)



この警告に耳を貸さず朝鮮併合等で半島と関わり続けたことが、結果的に現在のこじれた日韓関係に繋がっていると言えましょう。

せっかく征韓論を棚上げしたのに、なぜ半島と関わり続けたのか?


その時代の国際情勢や背景があったにせよ、明治時代に関わらなければ・・・と、悔やまれてなりません。


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