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自 決

1987~90年にかけて、本社や阪神支局など朝日新聞社の社屋・社員を襲撃した一連の『赤報隊事件』 が終息した後のことだっただけに、今から25年前の今日、新右翼活動家・論客として名を馳せていた


野村 秋介 

が、朝日新聞東京本社・役員応接室で拳銃自殺を遂げた事件は衝撃的でした。


       


野村氏は1935(昭和10)年に東京で生まれ、横浜で育ちました。

1961年に憂国道志会を結成し 『大悲会』 会長に就任後、河野一郎邸焼き討ち事件(1963年)や経団連襲撃事件(1977年)を起こし服役する一方、1986年にはフィリピンでモロ民族解放戦線に拉致された日本人カメラマンの救出に成功。

その野村氏が1992年の第16回参院選に際し、日本青年社等が組織した 『たたかい国民連合・風の会』 から漫才師・横山やすしさんらと共に比例区で立候補。

それを当時週刊朝日に連載されていた風刺イラスト『ブラックアングル』で、山藤章二さんが〝虱(しらみ)の会〟と揶揄した作品を掲載したのです。

これに激怒した野村氏は、山藤さんに抗議文を送り、山藤さんはすぐに詫び状を返送したとか。


       

(すぐに詫びるくらいなら、最初から掲載しなきゃいいのに・・・)

と私は思うのですが、とりあえずこの詫び状を以って野村氏と山藤さんとの間では手打ちとなりました。 しかしかねてより


 「戦争中に多数の若者を戦地に送ったのに、戦後はそれを忘れたかのように振る舞うのが許せない」


朝日新聞の報道姿勢に憤っていた野村氏は、更に同社に対する抗議を強めます。

同社に対し公開討論会を要求するなどの交渉を約1年間続けた野村氏は、1993(平成5)年10月20日、同志3人と共に同社東京本社を訪れ、中江利忠社長や週刊朝日編集長らと会談に臨みました。

本来ならこの場で朝日新聞社側の謝罪を受け入れる最終会談となるはずだったようですが・・・それまで冗談を交えながら穏やかに朝日新聞幹部らと話していた野村氏が突如拳銃を取り出し、
「皇尊弥栄」 を三唱した後に自らを撃って自殺を遂げたのです。


       

なぜ拳銃2丁を持ち込みながら、
(赤報隊事件のように)中江社長らを撃つのではなく自ら命を絶ったのか?・・・私には分かりません。

もしかしたら、自らを撃つことでより深く朝日新聞に反省を促したかったのかも。

しかし残念ながら、野村氏の思いは朝日新聞社には届かなかったようです。

それまで1989年の 『サンゴ礁KY事件』 や1991年からの 『従軍慰安婦捏造記事』 連載などをやらかした同社は、野村氏自決後も捏造・誤報を繰り返していますから・・・。

自らの命を以て抗議した野村氏、きっとあの世で激怒していることでしょう。
怒


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