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あげまん

私たち中高年世代のゴルフ愛好家にとって、〝AON〟・・・すなわち青木・尾崎・中島の3選手は忘れることの出来ぬ存在。

日本のゴルフ・ブームを支えたビッグ3ですょネ。

その中でも、最初に世界に目を向け積極的に海外の試合に参戦したのが


青木 功 選手


       


 戦時中の1942(昭和17)年に千葉県我孫子市の農家に4人兄弟の末っ子として生まれた青木選手は、当初プロ野球選手に憧れていたそうな。

しかし我孫子中学時代にあと1勝すれば県大会に出場できるという大事な試合にリリーフ投手としてマウンドに上がったもののサヨナラ負けを喫し、あまりの悔しさに野球をやめてしまいます。

部活をしなくなって時間を持て余した彼が始めたのが、我孫子ゴルフ倶楽部でのキャディー。


そこですっかりゴルフの魅力に憑りつかれた彼は、中学卒業と同時に東京都民ゴルフ場に就職し、林由郎プロに弟子入り。

22歳の時に2度目の挑戦でプロテストに合格した彼は、一時予選落ちの連続で低迷したものの、プロボクサーの猛練習に触発されて肉体改造を行い、1971年に関東ブロゴルフ選手権で初勝利。

1974年から海外のトーナメントに本格参戦するようになった彼は、1976年には初の賞金王に輝き、日本ゴルフ界のトップ選手に成長しました。

そして今からちょうど40年前の今日・1978(昭和53)年10月16日・・・ロンドン郊外のウェントワースで開催された世界マッチプレー選手権の決勝でニュージーランドのサイモン・オーウェンを3アンド2で下し、見事に優勝。

これが日本人男性選手による海外試合の初制覇でした。

※ただしこの時の優勝賞金30万ポンド(約1,100万円)は、イギリスの高い税金と為替差損により、殆ど手元には残らなかったとか。
ダメだぁ顔


その年から1981年まで4年連続の日本ツアー賞金王に輝き、その間翌年の同大会では準優勝、1980年には全米オープンでJ・ニクラウスと4日間の死闘を演じ2位に。

1982年には日本人で初めて米ツアーのシード選手となり、そして翌1983年にはハワイアン・オープンで米ツアー初優勝。


※このハワイアン・オープン優勝に関する過去記事は、こちら。(↓)



彼のゴルフ人生の中で全盛期を迎えたのです。


そして実は、この快進撃の陰に1人の女性がいました。


それは、青木チエ夫人。


実は彼女、青木選手が初優勝した関東ブロゴルフ選手権の観戦に行っていて、足元に彼が投げたウィニングボールが転がってきたという、〝運命の人〟だったんです。

普通は赤い糸で結ばれているんですが、ご両人の場合は白いボールが縁結びに。


しかし青木選手には前妻がおり、チエ夫人にもアメリカ人の夫がいました。

その2人がひょんなことから付き合い始め、このマッチプレー選手権優勝時には二人はバツイチ同士で同棲中。

彼らが抱き合う写真が新聞に載り、初めて関係が公になったのです。


       


その後2人は1980年に入籍しましたから、彼の全盛期と2人の交際が見事にリンクしていたってわけ。

やはり男が頑張るのは、愛する女性がいるからってことでしょうネ。


私は、この交際が明るみに出たことで、ひとつ納得したことがありました。

それはそれまでの青木選手は最初の写真のようにスポーツ刈りでウェアの色彩やデザインも頓着ない、正直街のアンチャンみたいな風体だったのに、この世界マッチプレー優勝前後から髪の毛が伸びウェアのセンスが良くなったこと。

       

           『イサオそして私』 (誠文堂新光社・刊

チエさんの自著にも記されていますが、ファッションアドバイスを彼女がするようになって劇的に変わったんです。

その後青木選手がアメリカのシニアツアーに参戦し9勝できたのも、英語ペラペラのチエ夫人が帯同したからこそでしょう。


チエさんは、青木選手にとってまさに〝あげまん〟ですょネ。


私も女王様じゃなくてアゲマンがいいなァ・・・。うー



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