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端麗瀟洒

先月、拙ブログでは戦国時代から400年にわたって日本画壇の中心を担った〝狩野派〟が生んだ天才画家・狩野永徳を取り上げました。


そして今日はその永徳の孫にして、やはり彼に負けず劣らずの天才画家であり、江戸狩野派の始祖でもあった

 狩野 探幽

の命日にあたります。


       


 探幽は、天下分け目の 『関ケ原の戦い』 が起きた2年後の1602(慶長7)年に、狩野永徳の次男・狩野孝信の長男 (※母は佐々成政の娘) として京都に生まれました。

祖父・永徳のDNAをしっかりと受け継いだのでしょう、探幽は弱冠10歳にして家康に謁見を許され、2
年後には第2代将軍・秀忠の御前で席画して祖父・永徳の再来と称賛されると、16歳で江戸幕府の御用絵師に。

そして1621年には江戸城鍜治橋門外に屋敷を得て、活動の本拠を江戸に移します。

江戸城・名古屋城・二条城、また大徳寺や妙心寺など大掛かりな障壁画を制作する一方で、
画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした詩情性豊かな表現を用い、独自の世界を確立。


 
            
名古屋城障壁画(重要文化財・1634年)


作風は山水・花鳥・人物と幅広く、若い時は祖父・永徳に似た豪快な画風だったものが、加齢と共に水墨を主体とした敢えて余白を意識する淡麗瀟洒な画風を確立。

江戸幕府の御用絵師として二百石を賜り、画家として最高位の〝法印〟にまで上りつめ、狩野派一族の地位を不動のものに。


           
大徳寺・方丈障壁画(重要文化財・1641年)

日光東照宮の絢爛豪華な装飾を企画・構成し、陽明門・唐門・神庫などの建造物、その全てに施す彫刻デザインや配置を決めた・・・現代風に言うなら、総合プロデュースをしたのも彼でした。

1623年に狩野宗家を末弟・安信に譲り、自らは鍜治橋狩野家を興し実子・守政に継がせましたが、皮肉にも鍜治橋からはその後有能な絵師は殆ど排出されませんでした。

やはり血は徐々に薄まるものなんでしょうか。


しかし久隅守景観・神足常庵守周・百田柳栄守光・尾形幽元守義の〝探幽四天王〟を始め多くの弟子を育て上げた実績を残し、1674(延宝2)年10月7日・・・探幽は72歳でこの世を去ったのです。

       
            
『狩野探幽』 (新潮日本美術文庫)

現在でも多数の作品が残され、その複数が重要文化財などに指定されていますが、惜しむらくは江戸城・大阪城の障壁画が焼失してしまったこと。

時の権力者の居城にどんな作品を描いていたのか?・・・もしタイムマシンがあるなら、是非持ち帰りたいものです。


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