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特 務

今から95年前の1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災は、首都圏をバニック状態に陥れました。

家屋の倒壊や火災によって多くの人が焼け出され、この気に乗じて破壊活動を行う無政府主義者や朝鮮人もおり、東京・横浜には戒厳令が布告され人々が日々の暮らしや将来に不安を抱える中、大震災から2週間余り経った9月16日に起きたのが

 甘粕事件

でした。 


その日、無政府主義者(アナキスト)の大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、それに東京の焼け跡が見たいとせがんで横浜から一緒についてきた大杉の甥・橘宗一(6歳)が、自宅近くで行方不明に。

※大杉栄に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後大杉の身を案じた友人の読売新聞記者・安成二郎が探すも見つからず、家人が警察に捜索願を提出。

それを受けて警視庁が調べたところ、憲兵隊によって拘束されたことが判明し、更に大杉ら3人の遺体が憲兵隊本部敷地内の廃井戸から発見され、殺害されたことが発覚したのです。


       
                事件を報じる号外


軍は9月20日付で、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長両名らを職務上不法行為を行ったとして軍法会議にかけ、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表。

更に5日後、甘粕大尉が16日夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した、と公表。

10月8日に記事差し止め処分が解除され、他の2名が伊藤野枝と橘宗一であることが報じられると、女性・子供が殺害されたことで世間は騒然となったとか。


軍法会議の結果、大杉・伊藤両名の首を絞めて殺害し、また子供を殺害するよう部下に命じたとして、甘粕大尉に懲役10年、森曹長に同3年、命令により殺害して遺体を遺棄した本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪、また見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪という判決が。


判決は甘粕大尉の個人的犯行と位置付けましたが、当初から背景に軍の関与を疑う声がありました。


       

                   甘粕大尉


懲役10年の判決を受けた甘粕大尉はその後僅か3年で仮出獄すると、自ら希望してフランスに(軍費で)留学。

1929年1月に帰国すると同年7月満州に渡り、南満州鉄道(満鉄)東亜経済調査局の奉天主任になると同時に、関東軍特務機関の情報・謀略工作に携わり満州国建国に深く関わりました。

個人的な理由で殺人事件を起こした者を、ここまで軍が抱き込むとは、まず考えられません。


軍命で泥をかぶった見返りに、彼の能力を十分発揮できる仕事・役職を与えた・・・と考えるのが妥当でしょう。


1891(明治24)年に宮城県警の警部を務める父親の長男として仙台市で生まれ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校を卒業し憲兵中尉となった彼は、生粋の職業軍人。

天皇陛下と軍に対する忠誠心は、人一倍強かったはず。

頭脳明晰で口が堅かった彼は、陸軍にしてみれば最高の特務機関員(エージェント)だったと言えましょうか。


その後満州映画協会(満映)の理事長となって経営不振だった同社の業績を短期間で回復された彼は、54歳だった終戦直後の1945年8月20日に服毒自殺を遂げ、この事件に関しては殆ど口を開くことなくこの世を去っています。

甘粕事件の影響で、彼を冷酷非情な人物と見る向きもありますが、一方で物事にきちんと筋を通し部下や周囲に優しかったという証言も。

新京で執り行われた葬儀には、満映スタッフをはじめ日満の友人・知人約3千人が参列し、葬列が1km以上に伸びたという逸話が、それを証明しています。

東條英機がその資質を高く評価し、また自身も東條を慕っていたという謎と魅力に溢れた甘粕正彦という人物について詳しく知りたい方には、(一部歴史事実について個人的に同意できない記述もありますが) この本をお勧めします。


 『甘粕大尉』 (角田房子・著 ちくま文庫・刊)


       


もし21世紀に生きていれば、さぞ大きな仕事をしただろうに・・・いや、スパイ防止法もない現行法制下では、彼の能力は生かせないか。うー


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