FC2ブログ
血 統

15世紀の室町時代中期から19世紀・江戸時代末期まで約400年間、日本画壇の中心であった狩野正信を始祖とする血族を中心として代々引き継がれた画家集団〝狩野派〟。

歴代多くの優れた絵師を輩出してきましたが、今日はその中でも代表的な天才画人といわれる


 狩野 永徳

の命日にあたります。


永徳は始祖・正信から数えて4代目・・・狩野元信の孫、そして狩野松栄の長男として1543(天文12)年に山城国 (現在の京都府南部) に生まれました。

正信の長男・元信からは繊細・緻密な真体画様式を、そして父・松栄からは奔放な草体画様式を学んだという永徳は、10歳の時に祖父・元信に連れられて時の将軍・足利義輝に謁見したという、まさに日本画壇の超エリート。

更に時代が戦国時代に入り、有力な武将が次々と登場したことが彼の運を高めたと言えます。

当初は細密画を描いていた永徳ですが、織田信長や豊臣秀吉に重用され、彼らの求めに応じて雄大な画風へと転換。

聚光院障壁画(国宝)、洛中洛外図(国宝)、檜図屏風(国宝)、南禅寺大方丈障壁画(重要文化財)、更には有名な唐獅子図屏風等々、いくつもの歴史的名画を生み出しました。


 
                
聚光院障壁画・花鳥図


また個人的に興味を惹くのは、織田信長の肖像画。


通常私たちがテレビや雑誌などで見る信長像は、永徳の弟・狩野元秀が1583年に描いたとされるもの(下写真・左)ですが、信長が本能寺の変で自刃した直後に永徳が描いたとされるのが右の肖像画。


 

永徳の描く信長は、眉間にしわを寄せた厳しい表情・・・こちらの方が信長に近いような気がするのです。

(もっとも、重要文化財に指定されているのは、左の元秀・作ですが。)


ただ惜しむらくは、その信長や秀吉の命によって描かれた安土城・聚楽第・大坂城など永徳が携わった数々の大作が、戦火により焼失してしまったこと。

もし現存していれば、国宝間違いなしだったでしょうに・・・。


更に永徳は単なる絵師としてだけでなく、晩年には狩野派隆盛のために当時急速に台頭してきたライバル・長谷川等伯とその一門の障壁画制作を阻止すべく、発注先や権力者に贈り物などをしたという逸話もあり、政治的な動きも強かにしていたようです。

更に子供の狩野光信・孝信を残し、更に孫には江戸狩野の始祖・狩野探幽を輩出していますから、一族の繁栄に関してもしっかりその役割を果したと言えましょう。

彼がこの世を去ったのは、1590(天正18)年9月14日・・・東福寺・法堂の天井画製作中のこと。

過労死だったそうですから、いかに人気が高かったのかが伺えます。


年齢が47歳でしたから、もう少し仕事をセーブしていれば更に長生きして作品を残させたはず。

とは言え、戦国時代に信長や秀吉ら絶対権力者からの依頼は、断れなかったでしょうけどネ。


彼の作品や生涯、また狩野派の絵師たちに関してもっと知りたい方には、こんな書籍がオススメです。

 『もっと知りたい狩野永徳と京狩野

           (成澤勝嗣・著 アート・ギャラリー・コレクション 刊)


       

繊細かつ大胆な画風と、抜群の色使い・・・400年以上前にこんな作品を残す日本人がいたことが、実に誇らしいです。扇子


                人気ブログランキング

スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック