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宅地開発

今や、各路線に田園調布・自由が丘・二子玉川等々、高級住宅地を持つ東京急行電鉄。

しかしその宅地・路線開発は、最初から同社が行ったわけではありませんでした。

現在の同社および東急不動産の前身である


田園都市株式会社


が設立されたのが、ちょうど今から100年前の今日のことでした。


1915年2月、東京市長や司法大臣を歴任した尾崎行雄の秘書・畑弥右衛門が荏原郡開発を打診してきたことを契機に、欧米型の住宅地開発とそれに伴う鉄道路線整備を構想したのが、あの渋沢栄一でした。

       

翌年2月に田園都市株式会社創立委員会が開催され、その場で委員長となった渋沢は同社の発起人の一人として名を連ね、1918(大正7)年9月2日に資本金50万円(現在の約3億円)で同社を設立。(本社所在地は現在の目黒区洗足2丁目 ↓)


     


翌年、日本興業銀行を辞め同社の取締役となった渋沢の四男・渋沢秀雄が田園都市視察のため海外11ヶ国を訪問するのと並行して、同社は事業用地として洗足・大岡山・多摩川台(現・田園調布)の買収を開始。

下の画像は、当時同社が作成したパンフレット。


 

真ん中を通っている茶色い線が目蒲線(現・目黒線)ですが、下の現在地図と見比べればよく分かると思います。

 


結果的に大岡山地域は地図の通り後に東京工業大学の用地となりましたが、1921年11月に事業用地約45万坪の買収を完了。


翌年に同社はそれらの土地を結ぶ目黒線の工事を開始すると土地の分譲を開始。


同年9月に目黒蒲田電鉄株式会社が設立され、この時専務に就任したのが東急グループの創業者・五島慶太。

そして田園都市株式会社にとって追い風となったのが、実はあの関東大震災でした。


1923年8月から同社は2回目の分譲を現在の田園調布で開始しましたが、その翌月に発生した大震災は木造家屋が密集する東京・横浜各地で火災を巻き起こしました。

しかし洗足を中心とする田園都市に建てられた住宅には1軒も被害がなく、それを知った人々の間に郊外移住の機運が高まったとか。

これによって隣接する奥沢地区や玉川全円耕地整理組合の結成にまで波及し、現在の世田谷区発展へと一気に広がったのです。


そして1928年(昭和3)年5月、田園都市株式会社は子会社の目黒蒲田電鉄に吸収合併される形で消滅し、田園都市事業は目黒蒲田電鉄田園都市部が継承。


同社がその後の街づくりを継続し、上野毛・奥沢・等々力・大岡山などの分譲を経て姉妹会社の東京横浜電鉄と共同で宅地を造成。

1929年に慶応義塾大学予科が日吉台へ、更に1931年には日本医科大学予科の新丸子移転が決定。

大学誘致と街づくりが同時進行で進められ、東横線沿線は次第に学園都市としての趣を感じさせるように。


こうした街づくりのノウハウがやがて東急多摩田園都市の建設に結実して行ったのです。

それにしても、超高級住宅街として知られる田園調布も、分譲が始まったころは家並みも疎ら。(↓)

    


この頃住んでいた方・・・寂しかったり怖くなかったんでしょうかねェ?あせあせ


 


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