FC2ブログ
異 色

その経歴も作品も異色ながら、私はこの方の撮った映画は大好き・・・今日は、その

 五社 英雄 監督


の命日・二十七回忌にあたります。


       

五社監督は1929(昭和4)年の東京都北区生まれ。

父親が用心棒的(?)な仕事をしていたこともあって子供時代は虐められたそうで、戦争末期は特攻隊員を志願するも病気で出遅れたため出撃できず終戦を迎えたという、屈折した青春時代を過ごしたそうな。

明治大学商学部に進学した彼は、もともと映画会社に就職したかったそうですが、入社試験では悉く不合格。


それでも少しでも映画に近い業界にとニッポン放送に入社したことが、彼にとって幸運でした。

というのは、入社後まもなくしてフジテレビが開局したから。

彼は上司に転籍を直訴してそれを実現すると、TVドラマ 『刑事』 や 『ジキルとハイド』 などをプロデューサーとして手掛けます。

そして1963年から始まったTVドラマ 『三匹の侍』 で、刀がぶつかる「キーン」や斬った時の「ドビュッ」という効果音を業界で初めて取り入れてお茶の間の人気を博すと、翌1964年に同作の映画化ではメガホンを取ってテレビ出身の映画監督第一号となり、 その後 『牙狼之介 』 (1966年) などを制作。


リアルな殺陣シーンなど、従来の映画界にはない発想・手法を取り入れるなどして気を吐いた五社監督ですが、私生活では波乱が。

奥さんがホストクラブ通いに狂って2億円の借金を作って失踪。


家を売り借金返済に奔走している最中に、お嬢さんが交通事故で頭蓋骨陥没骨折の重傷。

泣き面にハチといいますが、更に1980年には五社監督本人が拳銃を所持していたとして銃刀法違反容疑で逮捕され、不起訴にはなったもののフジテレビを依願退職。

借金返済の目途すら立たぬまま失職した彼は、一時期自殺をも考えたそうですが・・・ここで救いの神が現れます。

それは、東映の岡田茂社長。

五社監督の才能を惜しんだ彼が、「死ぬ気になってもう一度映画を作ってみろ」と励まし、彼に撮らせた復帰第一作が、あの夏目雅子さんの 「なめたらいかんぜょ!」 のドスの効いた捨て台詞で有名な 『鬼龍院花子の生涯』 (1982年)でした。


       

その後も 『陽暉楼』(1983年)、『吉原炎上』(1987年)、『肉体の門』(1988年)、『陽炎』(1991年)などの話題作を連発しましたが、何といっても最大のヒット作は 『極道の妻たち』 (1986年)でしょう。

それまで有閑マダム役など優雅な女性を演じていた岩下志麻さんを、ドスの効いた低い声と迫力で強面の男たちを仕切る姐さんに変貌させた同作は、それまで男性客一辺倒だった東映ヤクザ映画に女性の観客を呼び込むという画期的な効果を生み出しました。

何せ街を歩いていた岩下志麻さんが、本職のヤクザから 「姐さん!」 と声をかけられたっていうんですから、その人気の高さが伺えます。


    

彼の手がけた作品の殆どは黒字で、映画会社にとっては有能な監督のはずなのですが・・・なぜか評論家ら業界関係者には受けず。

映画賞にはとんと無縁で、『陽暉楼』に至っては、日本アカデミー賞で監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しながら、作品賞ではノミネートすらされないという珍記録も残しています。

彼自身も鬼政の如く全身に入れ墨を入れていたそうですが、その生き様や作風は明らかに日本映画界の異端児的存在だったが故のことなのかもしれませんが、おそらく本人はあまり気にしていなかったんでしょうネ。


また個人的に、北野武監督は主役がアウトローで暴力的、かつ悲惨というか破滅的な結末を迎える五社作品に少なからず影響を受けていると思うのですが・・・皆さんはいかが思われますでしょうか?

そんな五社監督について詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。

 『鬼才 五社英雄の生涯』 (春日文一・著 文春新書・刊)


       

五社監督は1989年に食道がんの宣告を受けたものの、それを隠し治療しながら映画の撮影を続けたのだそうな。


今宵は、今一度本書を読み返しつつ、1992年8月30日に63歳でこの世を去った、後に名優となった丹波哲郎・長門勇・夏八木勲・仲代達矢らを見出し、またあの三島由紀夫を俳優としてスクリーンに登場させた異色映画監督のご冥福をお祈り致します。笑3


              人気ブログランキング

スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック