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少年隊士

今からちょうど150年前の今日・1868(慶應4)年8月23日は、あの歴史ドラマや小説でお馴染み、


白 虎 隊


の少年隊士19名が自害して果てた、〝悲劇の日〟。


当時勃発した戊辰戦争に於いて会津藩は幕府方と見做され、新政府軍の敵として攻撃を受けることに。


会津藩は年齢によって組織分けをしており、青龍隊(36~49歳)・朱雀隊(18~35歳)は正規軍、玄武隊(50歳以上)と白虎隊(15~17歳)は予備兵力でした。


しかし圧倒的な兵力と装備を持つ政府軍の前に会津軍は追い込まれ、遂に白虎隊(士中二番隊)に登城召集がかかります。


既に父や兄が戦場に出ていた隊員の一人・弱冠14歳だった飯沼貞吉少年も、妹・弟を残して出陣することに。

その時、彼の母親は、


「お殿様のためにお前の命を捧げる時がやってきました。

日頃の父上の教えをよく守って、戦場に臨んだら決して卑怯なことをしてはなりませぬ。」


と戒め、息子を送り出したのだとか。


今でいうなら中学生・・・年端も行かぬ我が子を戦地に送り出す母親の気持ちは、察するに余りあります。


しかし二番隊は翌23日、戸ノ口原の戦いで大打撃を受け郊外の飯盛山に敗走。


その途中、命がけの戦闘で疲労の極にあった彼らは、山の中腹から見えた市内を覆う火災を若松城の落城と勘違いしてしまい、「もはやこれまで」 と、その場にいた20名が自刃してしまったのです。


(※TVドラマ等では、白虎隊が全滅したかのように描かれていますが、実際は他にも多くの隊員がおり、300名近くがその後も生き抜いています。)


しかし前出の飯沼少年だけは、喉に突き立てた刃が骨に当たって絶命することなく、通りかかった女性に介抱され、生き延びることに。


     

                 白虎隊十九士の墓


その後彼は新政府軍に捕らわれましたが、素質を見込まれて長州藩士・楢崎頼三に引き取られました。

しかし当初は何度か自殺を思い立ったそうですが、頼三に


「今、日本人は団結して国を強くしなくてはならない。

その担い手は若者だ。 国の役に立てるよう勉強せよ。」


と諭された貞吉は、一心不乱に勉学に励んだとか。


その後は電信技士として日清戦争に従軍。

その時、危険があるのでピストルを持参するよう促された際、


「私は、白虎隊で死んでいるはずの人間です。」

と言って笑った・・・というエピソードが残されています。

一度死を覚悟した人間は、強くなるんですねェ。
いや、むしろ死に場所を求めていたのか・・・。


世に言う〝白虎隊の悲劇〟は、晩年この飯沼さんがその重い口を開いたことにより、史実として人々の知るところとなったそうです。


       

                晩年の飯沼貞吉さん


飯沼さんは1931(昭和6)年に78歳で天寿を全うし、遺骨は仙台市内の寺に葬られました。


その後、彼の遺骨が飯盛山に眠る同志隊員のそばに建墓・分骨されたのが、1957年に行われた 『戊辰戦争後九十年祭』 の時。


史実を詳らかにしたにも拘わらず、仲間と離れ一人で26年間も仙台の地に眠っていた飯沼さんの胸中は、いかばかりだったのか・・・。


 


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